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2016年 11月 23~24日  西東京教区伝道協議会講演

   
井ノ川勝牧師
  

2016年 11月23~24日 西東京教区伝道協議会講演  

「日本伝道の志を新たに!~今、教会は何を受け継ぎ、何を語るのか~」

金沢教会牧師 井ノ川 勝

 

第一部「日本伝道の壁に風穴を~自伝的伝道論~」

 

「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(ペトロの手紙一416節)。
 

1.伊勢伝道を使命とする山田教会との出会い

1984年、東京神学大学を卒業した私は、三重県伊勢市にある日本基督教団山田教会に伝道師として遣わされました。以来、伝道師、副牧師6年、主任牧師24年、合計30年、伊勢で伝道し、御言葉を語り続けて来ました。山田教会はカンバーランド長老教会の伝道によって生まれ、日本基督教会の流れを汲み、日本基督教団にあって、改革派の信仰、長老制度の教会形成を自覚的に受け継ぎながら歩んで来ました。1923年(大正12)より冨山光慶牧師・光一牧師の親子二代に亘り67年間伝道・牧会して来た教会です。その後を私が受け継ぎ、30年伝道して来ましたが、伊勢伝道を一歩進めることは出来ませんでした。山田教会を辞任する決意をした時、会う人会う人から言われました。「隠退するまで山田教会で伝道すると思っていたのに、何故、転任する決意をしたのですか」。表向きはこのように答えました。「山田教会で伝道して30年、常盤幼稚園創立100周年を迎え、一つの区切りと思い、転任する決意をしました」。また、このようにも答えました。「山田教会は冨山光慶牧師・光一牧師の親子二代で70年近く伝道・牧会され、隠退後も山田教会の礼拝に出席され、山田教会で葬儀を行った。教会員も当然、私に対してそうなることを望んでいる。しかし、それが果して教会にとって良いのだろうか。伊勢伝道を前進させるためにも、新しい伝道者を迎え、新鮮な風を教会に入れることが、今、求められているのではないだろうか」。しかし、真意は違っていた。「私がこれ以上、伊勢で伝道しても伝道の進展は望めないと見切りを付けたからであった。自らの伝道者としての限界を痛感したためでありました」。惨めにも敗残兵のように伊勢伝道から撤退したのが、真実の姿であったのです。

 伊勢伝道の進展が日本伝道の進展に繋がると信じて、30年間、ひたすら伊勢伝道に励んで来ました。しかし、伊勢伝道を一歩進めることは出来ませんでした。それは30年間の教勢の推移が物語っています(資料1参照)。ご復活の主イエス・キリストから伊勢伝道に召されたにもかかわらず、そのご期待に応えることは出来ませんでした。山田教会の教会員に対して、申し訳ない思いでいっぱいです。何故、伊勢伝道を一歩進めることが出来なかったのか。もっとこうすればよかったと、伝道の手立てを反省することもいっぱいある。しかし、何よりも問わなければならないことは、伝道者としての私の姿勢であり、私が語って来た説教の言葉です。伝道者としての私が語った説教の言葉が、伊勢の町の人々に届かなかった。言葉が受肉しなかった。この点を十分の精査し、悔い改めることなくして、金沢伝道もあり得ないと思いました。今から私が語る講演は、伊勢伝道に挫折した破れに満ちた伝道者の自伝的伝道論です。しかし、それは一伝道者の伝道論に留まらず、日本伝道へと召された全ての伝道者・信徒にも参考になるのではないかと思いました。伝道協議会の主題は「信仰の継承」ですが、これは一つの家族、各個教会の信仰の継承に留まる課題ではありません。日本伝道という視点から「信仰の継承」に光を当てることが、私の講演の意図でもあります。

私が初めて山田教会を知ったのは、東京神学大学在学中の学部4年生の時でした。『東京神学大学学報』の「若き後輩牧師へ」のシリーズに、山田教会の冨山光一牧師が執筆していました。「耕岩播種・魳の遠び焼き」という文章です(資料2参照)。一読して感銘を受けました。まさか神学校卒業後、山田教会に伝道師として遣わされるとは思ってもみませんでした。私の伊勢伝道の原点となった文章です。そして今も日本伝道の原点としている文章です。

 私が山田教会の伝道師として遣わされて間もなく、富士見町教会の島村亀鶴牧師からハガキをいただきました。冨山光一牧師と親しい交わりにありました。そこにこう書かれてありました。「教会を愛し、土地を愛し、妻を愛しなさい」。冨山光一牧師の文章と共通しています。ご復活の主イエス・キリストに遣わされた教会を愛すること、土地を愛することです。この愛なくして日本伝道は進展しないということです。ここに日本伝道を支えた「伝道者魂」「伝道のスピリット」があります。私どもは今、それを新たな志をもって受け継ぎたいと願います
 

2.伊勢という町

最初に、伝道者である私の30年の伝道の対象であった伊勢という町がどのような町であったのか、その町でどのような伝道がなされて来たのかを概観してみます。ある意味で、日本伝道の縮図というものが見えて来ると思います。伊勢市は人口10万の地方の中心都市です。しかし、何と言いましても、伊勢神宮がある町であり、日本人の魂の故郷となる地です。戦時中は国家神道の総本山の地でした。三重県の中で、四日市、津、名張、桑名、松阪に次ぐ6番目の人口でありながら、日本基督教団の教会として最も礼拝出席者の多い教会です。

 伊勢神宮には内宮と外宮とがあり、内宮は皇室の祖、天照大御神が祀られ、三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としています。外宮は穀物の神である豊受大御神が祀られています。元々は天照大御神に食物を供する神でした。内宮の周辺を宇治町、外宮の周辺を山田町と呼んでいました。山田教会は外宮の前にあるので、山田教会という名前が付けられました。現在、「山田」の名前が残っているのは、山田教会しかありません。宇治町と山田町が合併し、宇治山田市となり、1955年(昭和30)より伊勢市となりました。元々この一帯を伊勢と呼んでいましたが、伊勢神宮の町であることを強調する市名となりました。

 1996年はキリスト生誕2000年でしたが、皇大神宮内宮鎮座2000年でもありました。20年に一度、御神体を新しい宮に移す遷宮が行われ、伝統の継承を行っています。私は伊勢在住30年で二度遷宮を経験しました。伊勢在住最後の年が遷宮の年でした。伊勢の住民は神領民とされ、各家の玄関に「笑門」というお札としめ縄を一年中掲げ、伊勢神宮の神事を担います。遷宮も本来、伊勢神宮の氏子であり、神領民である伊勢の住民が担う神事でしたが、今では「一日神領民」として神事を担う目的で全国から観光客を招いています。

戦時中は国家神道として日本の国体の中心的な存在で、神都と呼ばれていました。しかし、今日でもお正月に内閣総理大臣が必ず参拝しています。今年5月に行なわれた伊勢志摩サミットでは、各国の首脳を安倍総理が伊勢神宮内宮で迎えることから始めました。そこに明確な意図があります。今日でも皇室と深く結び付く伊勢神宮は、国家神道としての存在として確固たるものがあります。天皇を頭とする閉鎖的な民族・同族的ムラ共同体としての古い共同体が日本には確固としてあり、そこから生み出される「日本的なもの」こそが、日本が受け継ぐべき大切なものであることが強調されています。教育基本法の改正、国旗・君が代法案成立、道徳教育の義務化、その先にあるのは、憲法改正です。そこで御子キリストを頭とする民族を超えた普遍的な新しい共同体が日本に受肉し、身体的なものとして確立するか否かに私どもの使命があります。日本を変える新しい共同体・教会が語るべき福音の言葉とは何か、を真剣に問わなければなりません。

3.伊勢の伝道・山田教会の歴史

伊勢の町の入り口には宮川が流れています。昔は津方面から歩いて、あるいは籠や馬に乗って宮川岸まで来て、磯の渡しに舟に乗り換えて、伊勢の町に入り、伊勢参りをしました。この町には、「宮川より邪宗門の徒を一歩も入れじ」という血書誓約が交わされた町でした。「邪宗門の徒」とは「耶蘇教徒」を指しています。このような伊勢神宮の町に、どのようにしてキリストの福音が運ばれて来たのでしょうか。最初に、キリストの福音を運んだのは、女性信徒でした。伊勢出身の渡部フミでした。渡部フミは1889年(明治22)大阪教会で宮川経輝牧師より洗礼を受け、執事になりました。故郷に戻って伝道しようと機運が大阪教会に沸き起こり、渡部フミは初めて宮川を越えて、キリストの福音を伊勢に運びました。渡部フミの伊勢伝道を助けたのは、大阪教会を中心とする組合派の日本伝道会社とアメリカンボードでした。1891年(明治24)組合教会は服部六右衛門(後に堀と改姓)を伝道者として遣わしました。伊勢伝道を行った最初の伝道者です。この頃に講義所が開設されました。ところが、伊勢伝道は困難を極めました。やがて組合教会は伊勢伝道から手を引いてしまいました。

別のルートから伊勢伝道を志したのは、A.D.ヘール、J.B.ヘール兄弟を中心とするカンバーランド長老教会でした。ヘール兄弟は大阪を中心として伝道し、やがて紀州から志摩半島一帯を隈なく伝道しました。ヘール兄弟のわらじの足跡がないところはないと言われる程でした。「わらじ履きの伝道者」と呼ばれました。志摩半島の伝道は主に、兄のA.D.ヘールが行いました。カンバーランド長老教会の伝道は、日本人の魂の故郷である伊勢神宮の町にキリストの教会を建設することでした。しかし、いきなりそれをすることは困難である。そのため伊勢伝道の秘策を考えました。伊勢伝道の入り口に教会を建設し、そこを拠点として伊勢伝道をしようと伝道計画を練りました。それが日本基督教会四日市教会でした。1890年(明治23)三重県で最初の教会として建設されました。四日市教会に招聘された伝道者が、中須晴胤でした。

 中須晴胤は伊勢神宮社家の出身です。中須家は明治の始めの廃仏毀釈運動により、伊勢から追放されました。何故かと言えば、「神仏習合」を擁護し、「両部神道」を唱える社家は、「復古神道」に立つ「神仏分離政策」により迫害されました。中須家は伊勢を追放され、函館まで逃げて行きました。そして中須晴胤はキリストと出会い、伝道者になり、函館教会の牧師となります。同じ伊勢神宮の社家であった河井家も、廃仏毀釈運動により伊勢を追放され、函館に移住しました。中須家と河合家は親戚関係にありました。中須晴胤の従妹が河井菊枝。その娘が河井道で、後に恵泉女学園を創立しました。中須晴胤が河井家にキリストを伝道したと言われています。河合菊枝は後に、郷里である伊勢の近くにある度会郡内城田に帰られ、伊勢伝道を担う中心的な信徒となります。

 1890年(明治23)日本基督教会四日市教会に招聘された中須晴胤は、四日市教会を拠点として伊勢伝道に

出張し、その2年後、浪速中会の要請を受け、故郷の伊勢の山田講義所の主任者となりました。かつて伊勢から追放された社家の中須晴胤が、今やキリストを伝える伝道者となり、伊勢神宮の町に戻って来ました。神の摂理を感じます。日本基督教会山田講義所が正式に設立されたのは、1897年(明治30)です。現住陪餐会員24名という記録が残っています。来年2017年、宗教改革500周年が、山田講義所設立120周年になります。

教会堂が建設されたのは、福井捨助伝道者の時代でした。今日の外宮の前の岩渕町に土地を購入し、そこに教会堂を建てました。教会員にとって礼拝する教会堂が与えられた喜びと共に、教会堂の屋根に十字架を掲げることが念願でした。ここにキリストの教会が建つことを証ししたかったのです。ところが、町の人々は伊勢神宮の前に十字架を掲げることを許しませんでした。この町は伊勢神宮の町であり、しかも外宮のすぐ前に十字架を掲げることなど、もってのほかと判断を下しました。しかし、教会員は諦めませんでした。教会堂の軒瓦全ての十字を刻み、ここにキリストの教会があることを示しました。「十字瓦の教会」と呼ばれるようになりました。今の教会堂は1971年(昭和46)に建てられましたが、先達の信仰を受け継ぐために、玄関の壁に十字瓦が埋め込まれています。

山田教会には常盤幼稚園があります。アメリカのカンバーランド長老教会の教育宣教師ジェッシー・ライカーにより、1913年(大正2)に創立されました。伊勢で初めての幼稚園でした。幼児教育を通して、伊勢の町にキリストの福音を各家庭に伝えて行こうとの志から生まれた幼稚園です。ライカーが伊勢の町に来たのは1906年(明治39)で、32歳の時でした。幼稚園創立まで7年間を要しています。いきなり幼稚園を創立しても、外国人が園長をする幼稚園に大切な子どもを預けないでしょう。まず、町の人々と親しくなり、信頼を得ることが第一と考えました。英語、西洋料理、洋裁などを教えながら伊勢の町の人々と交わりました。

 ライカーが創立した常盤幼稚園は伊勢の町に無くてはならぬ幼稚園となります。文部省から教育功労賞も受賞しました。ライカーは全財産を幼稚園と教会に注ぎ込み、伊勢で骨を埋めるためお墓を購入していました。ところが、太平洋戦争が勃発しますと、敵国人としてアメリカに強制送還させられました。35年間いた第二の故郷を一人寂しく後にしました。戦後再び伊勢に帰ることはありませんでした。

太平洋戦争中も伊勢神宮外宮の前にあった教会は、一度も主日礼拝を休むことなく続けられました。壮年・青年男子は皆、戦地に駆り出され、残されたのは高齢者と女性だけでした。礼拝にはいつも憲兵が目を光らせていました。町の人々は敵国の宗教を信じる輩と、敵視の目を注いでいました。しかし、そのような中でも少ない人数で肩を寄せ合うようにして礼拝が捧げられました。そして太平洋戦争を潜り抜け、山田教会は生き残りました(資料3参照)。

 戦前、戦中、戦後の厳しい時代を担ったのは、冨山光慶牧師でした。冨山光慶は三重県亀山市の天台宗の長賢寺円明上人の長男として誕生し、僧侶として修行中、A.D.ヘール宣教師より洗礼を受け、キリストを伝える伝道者となり、伊勢神宮の町で1923年(大正12)から37年間伝道しました。父、円明上人に、「私はお寺を継ぎません。キリストを伝える伝道者になります」と告げた時、父は頭を拳骨で殴り、涙を流して「信仰は自由だ」と言ったそうです。

 伊勢伝道を担ったのは初代伝道者・中須晴胤3年、馬場正毅、鐘田安通、福井捨助4年、長山萬治8年、秋保孝蔵2年、冨山光慶37年、冨山光一43年、井ノ川勝30年、そして現在は渡部和使牧師、渡部信子牧師。そして宣教師、多くの長老、信徒によって担われて来た(冨山光一著『冨山光慶の生涯』1990年、『伊勢の伝道・山田教会の歴史』2006年、参照)。

ここで語った伊勢伝道・山田教会の物語は、皆さんの教会の伝道・教会物語と共通するものがあると思います。そしてその伝道と教会物語は今も続編となって書き続けられています。それぞれの時代に困難な戦いがありました。しかし、伝道と教会物語を綴って来た多くの伝道者、信徒の「伝道のスピリット」を、私どもも受け継ぎ、新しい伝道と教会物語の一章を綴って行きたいと祈り願うものです。

4.日本伝道の志を新たに!―執り成しの共同体として生きるー

日本のプロテスタント教会の初期の代表的な伝道者であった植村正久が強調した「志」は、二つの中心を持つ楕円でした(京極純一著『植村正久~その人と思想~』、新教出版社、1966年)。「伝道者」として生きることと、「社会の木鐸」として生きることでした。「木鐸」という言葉は今日用いられない言葉ですが、元々は中国で法令など人民に触れて歩く時に鳴らした舌を木で作った鈴でした。それが世人に警告を発し、教え導くという意味になりました。「伝道者」として生きることと、「社会の木鐸」として生きることは、植村にとっては一つのことでした。それが1890年(明治23)発刊の『福音週報』と『日本評論』となっています。伝道者が教会で語る言葉が、そのまま日本社会の木鐸となる。これこそ植村を始めとする日本のプロテスタント教会の伝道者、信徒が持った志です。

 しかし、今日、私どもの伝道の射程が狭く小さくなっていないでしょうか。目前の教勢不振、今後の10年の厳しい教会員減少のデータを見せられ、何とかして教勢を回復しなければと伝道しているのが現状です。教会が語る言葉が教会内だけに通用する言葉となり、日本社会に響かない言葉となっています。しかし、ご復活の主イエス・キリストから私どもに託された志は大きい。福音によって日本を変える。福音によらなければ真実に健やかな日本とはなり得ません。その志を受け継ぎ、生きることが今こそ求められています。島村亀鶴牧師が語った「教会を愛し、土地を愛し、妻を愛せよ」の中の「土地」に、「日本」が伝道の対象として明確に意識されているかどうかです。
 

昨年2016年は敗戦後70年でした。そのことに心を留めながら御言葉と向き合い、主日礼拝で説教をしました。そこで改めて行ったことは、第二次世界大戦下、日本の伝道者たちがどのような説教をしたのか。それを考察する作業をすることでした。ところが、戦争中のことですから、説教の原稿、資料が残っていません。私どもが手掛かりにできるのは、日本キリスト教団出版局が編集した『日本の説教』第115巻、第214巻を参考にすることでした。ところが、『日本の説教』にも第二次世界大戦下の説教がほとんど言っていいくらい納められていません。太平洋戦争中の説教としてあったのは、矢内原忠雄の説教と、浅野順一の説教、福田正俊の説教、そして賀川豊彦の説教だけでした。但し、浅野順一の説教は、エレミヤ書の説教を戦前、戦中、戦後と三回していますが、説教集に納められているものは、戦後のものです。しかし、そこから戦争中の説教をある程度推測することができます。これらの説教者に共通していることは、第二次世界大戦師下、エレミヤ書を集中して説き明かしていることです。賀川豊彦の説教は「エレミヤ哀歌に学ぶ」で哀歌を説き明かしていますが、この説教の後、説教を聞いていた憲兵に捕えられ、渋谷憲兵隊に拘引され、巣鴨拘置所に拘留されます。第二次世界大戦下、預言書をひたすら説き明かした説教者たちは、預言者となって説教を語りました。言い換えれば、説教の聴き手は目の前の会衆だけではなく、日本に向かって、時代に向かって語りかけました。

 ところが、敗戦後、説教者は預言者ではなくなりました。すると何が起きるかと言えば、説教の聴き手が礼拝堂にいる会衆に狭められ、「時代を生きる聴き手」「日本を生きる聴き手」「世界を生きる聴き手」にまで視線が注がれなくなりました。また、説教者が語る福音が個人の魂の平安に留まり、歴史における救いという視野、救済史的な広がりを持たなくなりました。「時代の霊」を見抜くまなざしが濁っているところがないでしょか。

加藤常昭著『自伝的説教論』(キリスト新聞社、2003年)は、太平洋戦争に突入する最中、東京帝国大学教授職を追われ、無教会の一伝道者であった矢内原忠雄の伝道説教に耳を傾けるところから始まっています。当時、加藤常昭教師は13歳の中学生でしたが、その年の1943年(昭和18)のクリスマスに洗礼を受けました。その時、このように思いました。「洗礼を受け、キリスト者になることは、天に国籍を与えられること。そうであるとすれば、僕は少なくとも半分、日本人ではなくなったと思ったのである。それだけ、日本人の間に生きるとき、少々異質な存在、仮住まいをする者になることは避けられなかった。ある日、うっかり、教会の中学生会の名簿を机の中に置き忘れ帰宅し、翌日来校すると、それが引きちぎられて机上にあった」。

 日本人である私どもが洗礼を受けキリスト者となり、天に国籍を持ち、地上では仮住まいの者として生きる。それは言い換えればこうなります。洗礼を受けることにより、私どもは天に足を着け、日本国の外に立ち、神のまなざしで日本を見る。その時、日本国の真実な姿が見えて来ます。罪が見えて来ます。そして日本を愛するが故に、日本国に悔い改めを求めます。神が日本の国も愛し、日本をも救おうとして神の御子イエス・キリストを送って下さった。そして神の御子イエス・キリストは日本人のためにも、十字架でいのちを献げて下さった。それ故、日本の国が真実にキリストの福音によって健やかな国となるために、悔い改めを迫り、執り成しの信仰と祈りに生きる。その使命に生きることこそが、天に国籍を持ちつつ、地上では仮住まいの者として生きる日本人キリスト者なのです。洗礼を受け、日本人がキリスト者になる。言い換えれば、日本人が「日本人である」ことから、真実に「日本人となる」ことです。洗礼を受けキリスト者となった私どもは、天に国籍を得て天に足場を堅固に持ちつつ、同時に、日本という土壌に根ざす生き方をしっかりと造ります。

 ペトロの手紙一の主題が、将に、ここにあります。異邦人がキリスト者となり、寄留者として生きることはどういうことなのか。言い換えれば、日本人がキリスト者となり、寄留者として生きることはどういうことかです。洗礼を受け、天に国籍を持つ「天国人」として、天に足場を持ちつつ、同時に、日本という土壌に根ざす「日本人キリスト者」として生き方をしっかりと造り上げて行く。伝道者ペトロは語ります。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(416)。

伊勢伝道30年の歩みをまとめた書物に、『信仰生活の手引き 教会』(日本キリスト教団出版局、2012年)があります。その中に、「執り成しの共同体として」という章があります。私が山田教会の教会員によく語った言葉があります。「私どもは伊勢市民10万を代表し、伊勢市民に代わり、伊勢市民の救いのために、神の御前に立ち、礼拝を捧げている。それ故、小さな群れであることを恐れないでいよう。小さな群れである山田教会がなければ、一体誰が伊勢神宮の町にキリストの福音を伝えるのだろうか」。志摩半島に鵜方教会という創立60年を迎えたホーリネスの信仰に生きる小さな主の群れがあります。志摩半島には燈台が幾つかあります。夜の海を航海する船にとって、灯台は無くてはならない光の道しるべ、光の航路です。鵜方教会は主から福音の光を町に灯す志摩の燈台としての使命を自覚し、立ち続けています。そこにも執り成しの信仰に生きる主の群れがあります。

 神がイスラエルを奴隷の家エジプトから導き出された時、神は神の民に大切な使命を託されました。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。それゆえ、イスラエルの人々は代々にわたって、この夜、主のために寝ずの番をするのである」(出エジプト記1242)。神が神の民イスラエルに託された「寝ずの番」という使命は、新しい神の民である教会にも託されています。教会はまどろむことなく「寝ずの番」をすることにより、日本の救いのために執り成し祈る「執り成しの共同体」として立ち続けて行きます。

渡辺善太牧師が銀座教会で、「風見と指南車」という説教をしています。「風見」は屋根の上に取り付けて、風の方向・強さを測る道具です。教会はどのような時代の風が吹いているのかを知らせる役目があります。しかし、それ以上に大切な使命は、「指南車」としての役目です。「指南車」とは、昔中国で道案内や戦争の時に使ったもので、車に木像の仙人を立て、その手が常に南を指すように装置したものです。強風が吹こうが、どんなに時代の風が教会にとって逆風であろうと、時代が移り変わろうと、教会は揺らぐことなく、絶えず、ここにあなたの救いがあると一つの方向を愚直なまでにひたすら指し示します。渡辺善太牧師はその説教をこのように結んでいます。私が伊勢伝道30年、いつも心に刻んでいた言葉です。

「万古不易、永遠不変の南北を指さす磁石―指南車―によって、行き手の道をはっきりと見定めなければいけない。国家に、民族に、それがなくては滅びます。それをするのがキリスト教の、いな『指南車』としての教会のつとめです。きかれなくてもいい、信者がふえなくてもいい、一生うずもれてもいいから、牧師、伝道者となり、長老となり役員となる。この指南車の役目、風見の動きを眺めながら、不動の方向を指さす。何年たっても結果が見えない。何の故あって自分は教会に奉仕するんだろう、そう思いながら指南車の指さす方向に進む。これです、これがわからない人はキリスト教はわかりませんよ。召されながらその効果がないという矛盾に耐えて、かえってそれをにないながら教会への奉仕ができなくちゃいけない」(『渡辺善太著作集13 人間―この失われたもの』、ヨベル新書、2016年)。

 

 第二部「私たち教会が語る言葉は日本人の魂に受肉するか~自伝的説教論~」

「すべての人に対してすべてのものとなりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(コリントの信徒への手紙一92223節)。

1.私たち教会が語る言葉は日本人の魂に受肉するか

私の伊勢伝道30年の歩みは、伝道者として挫折と失敗の30年でした。それは言い換えれば、伝道者である私が語る説教の言葉が、伊勢に生きる人々の魂に届かなかったということです。私は伊勢を離れる時、一つの決意をしました。30年間、山田教会で語って来た説教原稿を全て廃棄しました。山田教会でして来た説教を、そのまま金沢教会でしていたら、金沢伝道も進展しないと思ったからです。伊勢を去る時、ある教会員から言われました。「先生を金沢へお送りしたことが、本当に主の御心であったと山田教会員が思えるように、一所懸命に金沢で伝道して下さい」。この言葉を心に刻みながら金沢伝道に励んでいます。

説教が新しくなる。しかし、説教が変わることは容易なことではありません。説教者の存在が変えられないと、説教も変わりません。存在と言葉とは密接に結びついているからです。私の一伝道者の挫折と失敗の経験は、同時に、今日の日本伝道に重なり合う課題でもあります。「私たち教会が語る言葉は日本人の魂に受肉するか」という重大な伝道課題となります。この主題を第二部では、「説教」という視点から見て行きたいと考えています。古くから問われて来た「福音の土着化」の問題は、何よりも説教の課題であるからです。

その手がかりとして、2012年、キリスト教本屋大賞を受賞したカトリックの信徒・山浦玄嗣(げんし)著『ガリラヤのイェシュー』(イー・ピックス出版、2011年)に注目したいと思います。岩手県気仙地方の方言ケセン語で四つの福音書を翻訳した意欲作です。この翻訳に登場する人物はケセン語だけでなく、北は津軽から南は薩摩まで各地のふるさとの言葉、謂わば「世間」の言葉を話す人物が登場します。この本の前書きで、カトリック仙台教区の平賀徹夫司教がとてもよい序文を書かれています。この文章に注目したいのです。

「『ふるさとの仲間に敬愛するヤソのことを伝えたい』との並々ならぬ思いに衝き動かされて山浦は、頭ではひととおりの理解はできるというだけの言葉ではなく、ふるさとのことばこそ『ヤソの言葉を腹の奥までも響かせる力強いことば』であるとして、ケセン語に翻訳して提供するという前代未聞の試みを敢行したのでした。人がキリストの福音を福音として受け止めることができ、そしてその宝を心から、腹の底から溢れてくる自分のことばで表現することができて初めて可能となるでしょう。自分のふるさとがどこであろうとも、人はそれぞれ腹にストンと落ちる自分のことばでもって聖書に関わっていくことができること、こうして福音が文字通りどのような人にも向けられる普遍的な『よいたより』であることの一つの証明にもなっていきようです」。

キリスト教会の誕生、キリスト伝道の出発点である聖霊降臨の出来事を想い起します。

「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞き、あっけにとられた。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』」(使徒言行録268)。

 聖霊降臨の出来事は、福音(よいたより)がふるさとの言葉で語られ、福音が腹の奥までも響かせる力強い言葉となった出来事です。福音がふるさとの言葉となって、その土地の人々の魂に受肉した出来事です。私ども教会が語る言葉が、その土地の人々の腹の奥までも響かせる、生活を変革する言葉を語り得ているか否かが問われます。

 
1988113日、八王子の大学セミナーハウスで行われた東京神学大学主催教職セミナーで、高知の香美教会の山崎佑博牧師が「四国のある田舎伝道」という題で特別講演をされました。山崎佑博牧師は香美教会で50年伝道・牧会された伝道者です。その内容が『東京神学大学学報』148号(1988225日)に紹介されました。私は教職セミナーには出席できませんでしたが、この文章を読み、衝撃を受けました。当時、説教に行き詰まりを感じていた私にとって、説教の回心、伝道者としての回心を促す文章でした。山崎佑博牧師は香美教会で、伝道者として2度の回心をしたことを証しされています。そしてそのことが自らの説教に転換をもたらしたことを告白しています。

 
 <第一の回心>(資料41段目~3段目8行目)。

山崎佑博牧師のこの言葉に共鳴するところ大です。私も伊勢伝道30年、伝道者としての自らの貧しさ、説教の貧しさに打ちのめされました。御言葉を語っても語っても、教勢は伸びず、むしろ減少して行く。私は伝道者として一体何をしているのか、と自問自答する日々でありました。詰まるところ、「まことに主がここにおられる」という主の現臨を本気で信じていなかったことに尽きるのではないか。池の水面に写った神学だけで、神を、キリストをつかみ取り、それで説教できる、伝道できると思い上がっていただけであったのである。知識や技法を身に着けるだけでは、真実の説教とはなり得ない。「まことに主がここにおられる」という主の現臨の前で打ち砕かれ、ただ畏れをもって、全存在で主が生きておられることを証言する。説教は「証言の言葉」であることを身をもって知らされました。


<第二の回心>(資料43段目9行目~最後まで)。

 説教の課題は会衆全ての魂に響く福音を語ることにあります。それは説教の重大な課題であり、人間の業を超えた聖霊の業によらなければできないことです。その時、こういうことが言われます。この聴き手に届けば、全ての聴き手に届く、そういう聴き手を発見しなさい。説教の重要な課題の「聴き手の発見」です。山崎佑博牧師にとって、そのような聴き手こそ、かなり高齢になるまで読み書きができなかったおばあさんでありました。説教のエンジン=聖書の釈義、神学がフル回転しても、信徒との関係、関わりというクラッチが正常に作動していなければ、説教、牧会、教会という車は動かない。聴く者が本当に理解し、納得する言葉を絶えず要求し、説教が上すべりすることを許しませんでした。更に、楽譜の読めないこのおばあさんが腹の底から歌える信仰の歌・讃美歌が必要だと思いました。そこでこのおばあさんが唯一知っている土佐の民謡「よさこい節」に曲を付けて歌い、また新たに作詞しました。素敵なことですね。このおばあさんの葬儀に、その讃美歌を歌って主の御許にお送りしました。福音の生活化という出来事が礼拝、説教で起きなければ、伝道は前進しないということです。生活に響く福音の言葉を語り得るかが、説教の重大な課題となります。

コリントの信徒への手紙一9章は、伝道者パウロの伝道者としての召命、説教者としての召命が明晰に語られています。伝道者、説教者としてのパウロのこの召命を、私ども自身のものにすることが求められています。

パウロは語ります。「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(919)。私は誰にも束縛されない自由人であり、同時に、すべての人に仕える奴隷でもある。ルターが『キリスト者の自由』(1520年)の冒頭で綴った命題です。パウロは語ります。できるだけ多くの人を得るために、ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになり、律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになり、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになり、弱い人に対しては、弱い人のようになり、すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(916)。

日本キリスト教団出版局が『日本の説教』(20032007年)を刊行し、第一集に13名、第二集に14名の日本を代表する説教者の説教を編集しています。その多くが都会の教会の伝道者の説教です。しかし、日本伝道のその多くを担って来たのは、地方の伝道者の説教です。私は地方で一筋に伝道して来た伝道者の説教をまとめた『日本の説教 地方版』が必要ではないかと考えています。地方に生きる日本人の魂に響くどのような説教の言葉を語って来たのか。それを検討することは、「日本人の魂に受肉する福音の言葉とは何か」を問う上で、重要な課題です。

 

2.地方で伝道した伝道者の説教の考察

「私たち教会が語る言葉は日本人の魂に受肉するか」。この主題を考察するために、ここで地方で一筋に伝道した三名の先輩伝道者の説教を採り上げます。いずれの伝道者も「日本伝道の要点」を押さえた説教をしています。地方に生きる日本人の心に届き、魂に響く言葉・説教を語っています。採り上げる三名の伝道者は金沢伝道に励んだ上河原雄吉牧師、高知伝道に励んだ山崎佑博牧師、伊勢伝道に励んだ冨山光一牧師です。いずれも日本基督教会の流れを受け継ぐ伝道者です。全国に名前は知られていませんが、このような名前の知られていない地方の伝道者が、日本伝道を支えて来たことを忘れてはなりません。三名の伝道者の説教を、「日本伝道という視点」から考察します。

 
1)上河原雄吉牧師の説教

経歴:1898年~1982年。京都市に生まれる。大阪の同志館神学校(大阪神学院)卒業。新宮教会、田辺教会、高芝伝道所、鳥取伝道所、津伝道教会、そして金沢教会で1941年(昭和16)から30年間、伝道・牧会をされた。生涯「田舎牧師」であることを誇りとした。

遺稿集:『救いの岩―上河原雄吉牧師遺稿集―』(金沢教会、1983年)

かつて金沢教会の長老であった深谷松男長老が、『説教黙想アレテイア』51号(日本キリスト教団出版局、2006年)「牧会者のポートレイト」で、「上河原雄吉」を紹介されました。その中で、上河原雄吉牧師の説教の特徴に触れています。その特徴は何よりも、「文飾よりも骨組み」であったと指摘されています。

「先生は何よりも説教に心身を打ち込まれた。その説教は福音の急所を指し示し無駄のない、神学的構築の堅固な、その意味で飽きのこないものであった。先生自身、説教にはその神学的組み立てを最も重視していると言われた・・・先生の説教は、いわゆる雄弁な説教ではなかった。生来の歯切れの悪い発音のため聞き取りにくかったが、心耳を傾けているうちに、福音の深みに迫る極めて滋味豊かな説教であったことに気づくのであった。何と言っても、その主題ないし焦点が確かな福音主義信仰に収斂するものであったがゆえに、明解であった。豊かな思想史の知識を背景に論争的に導入を組み立てることが多かったが、これも説教の主旨の在りかを示し、また随所に、揺るぎないものに裏打ちされた先生独自の言葉が加わって、深く食い込むのであった。しかも、福音を説く喜びが先生から自ずと滲み出て、それがまた聴く者の心を高めた」。「先生の信仰は、まさにキリスト信仰であり、説教では『キリストにあって』が口癖のように出てくるのであった」。

 生来の歯切れの悪い発音のため聞き取りにくく、雄弁な説教ではないという説教者の欠点を持ちつつも、努力してその欠点を克服し、福音の深みに迫る極めて滋味豊かな説教を語りました。生来訥弁であった植村正久牧師がその欠点を克服し、やはり福音の深みに迫る滋味豊かな説教を語り、日本を代表する説教者になったことと通じます。説教の核心は常に「キリスト中心」の説教でありました。キリストを日本人に喜んで紹介することに、自分の欠点をも含んだ全存在を懸けて集中しました。


③説教「基督礼拝と偶像崇拝」(1935415日 津伝道教会)

 採り上げる説教は、1935年(昭和10415日、太平洋戦争前の説教で、津伝道教会でなされたものです。この説教に表れた福音理解は、真宗王国北陸金沢の地での伝道、金沢教会時代まで引き継がれています。その意味で、上河原牧師の代表的な説教です。『救いの岩―上河原雄吉牧師遺稿集―』の冒頭に掲げられた説教です。聖書の箇所は挙げられていません。資料5参照。

 (資料51139行目)

 説教の冒頭は深谷長老が指摘するようにキリスト論論争から始まります。1935年の説教なので、バルト神学の影響を受けています。自由主義神学が唱えるように人間の経験に立つのではなく、神の啓示に立つ神学を基調として説教を展開しています。キリストを主観的に捕えるか、客観的に捕えるか。この点こそが、教会が立ちもし倒れもする信仰の急所であると指摘しています。何の導入もなく、いきなり主題から切り込んでいます。信仰の核心はキリストと出会うことにある。キリストが私と出会ってくださることにある。これが説教の主題です。

 いきなり主題から切り込んで語り始めます。しかし、神学の王道であるキリスト論論争を聴き手の身近な譬えを用いて語っています。従って、聴き手は抵抗なく説教に入って行けます。しかも、日本の教会の信徒が陥りやすい急所にいきなり入って行きます。教会の信仰と対立する個人の信仰、主観的な信仰です。主観的な個人信仰は、人間の要求が先に立ち、自分の満足する洋服を買い求め、時流に合った服を追い求め、時代遅れの服を脱ぎ捨てて行きます。それに対し、教会の信仰は人間の要求が先にも中心に立つのでもなく、神の主権に服することにあります。野路に迷い、家路に帰れない目の不自由な人に、キリストが近寄り、家路に着かせてくださる。「それこそ、地獄に仏である」。慣用句ですが、説教にこの表現を用いることは驚きです。上河原牧師のユーモアです。キリストが野路に迷った私どもに近寄り、家路に着かせてくださる。そこには人間の要求が先に立つのではなく、ただ感謝してキリストに従うのみ。神の主権に服するのみです。上河原牧師、教会を生かす信仰の伝統である改革派の信仰が現れています。

 (資料5140行目~39行目)

 説教の本論です。実に教理的な説教です。深谷長老の言葉で言えば神学的構築の堅固な教理的説教です。しかし、聴き手には説教の言葉が頭の上を素通りしなかったと思われます。なぜなら、教理が生活化した言葉になっているからです。ただ教理を説くのではなく、聴き手の生活の中で説いているので、説教の言葉が聴き手の心に響いたことでしょう。説教の主題は「イエスは誰であるか」という教理の中核です。ここに教会のいのちが懸っています。この教理の主題を、人間の神化という偶像崇拝に生きる日本人の宗教心と触れ合わせながら語って行きます。

 イエスは神ではなく、天父を示された神よりも劣った神の子、あるいは人類の教師、預言者である。教理史におけるキリスト論論争は過去の問題ではなく、まさに日本伝道のいのちに関わる核心部分です。キリスト教会もユダヤ教と同じく、人間の神化、偶像崇拝を排斥しました。しかし、イエスをキリスト、神として礼拝するキリスト教会に対し、それは偶像礼拝に通じるのではないかとユダヤ教から激しく問われました。キリスト教会はこの困難な問題を引き受けなければなりませんでした。イエスは人間が神化したのではなく、神の人間化である。イエス・キリストとお会いすることは、「わが神、わが主よ」と、神とお会いすることです。人々、日本人にとって躓きとなるこの信仰を、自国歴史の伝統上に困難があろうと、将来の伝道上不自由を感じようと、ここに救いのいのちがあると信じて引き受けました。「直截に言って、基督信仰は基督礼拝である」。ここに教会の信仰のいのちがあり、日本伝道の要があります。説教の言葉に伝道者のいのち、気迫がこもっています。教理の言葉に伝道者のいのちと愛が注がれています。ドグマとライフの一体化が説教に滲み出ています。

  「直截に言って、基督信仰は基督礼拝である」。これは名言です。教会の信仰のいのちが、この一言で言い表されています。1935年の説教ですから、日本基督教会時代の説教です。上河原牧師を支えた信仰が、「日本基督信仰の告白」でした。その冒頭の告白の言葉を想い起します。「我等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独り子にして、人類のため、その罪の救ひのために、人となりて苦を受けて我等の罪のために、完全き犠牲をささげ給へり」。日本人が日本において自分たちの言葉で初めて告白した信仰の言葉です。1890年(明治23)のことです。この年には「教育勅語」が制定され、前年には「大日本帝国憲法」が発布され、天皇を神と崇める法的な枠組みにより、日本の国の形が構築される仲で、「我等が神と崇むる、主耶蘇基督」と信仰を告白した当時の教会の姿勢に感服します。当時の教会の姿勢、伝道者の姿勢が、上河原牧師の説教に滲み出ています。

 

2)山崎佑博牧師の説教

経歴:1916年~現在。高知県に生まれる。日本神学校(現在の東京神学大学)を卒業。高知の香美教会で50年間、伝道・牧会をされる。四国教区の伝道委員長、香長伝道圏で説教の指導に当たられた。

説教集:『山崎佑博説教集』(香美教会)。

 

②説教「キリストの受洗」(1985811日 香美教会)

 採り上げる説教は、1985811日、香美教会でなされた晩年の説教「キリストの受洗」、ルカによる福音書32122節です。資料6参照。

(資料6334行目~419行目)

 山崎牧師の回心の記でも語られていたように、伝道者としての生涯の課題である「信仰のリアリティ」「信仰の確かさ」「救いの確かさ」が、説教の主題となっています。これは宗教改革の原点となった主題であり、日本の伝道の課題であり、日本の教会に生きるキリスト者に絶えず問われている問題です。洗礼を受けキリスト者になった教会員が、救いの確かさが不明確になり、教会から離れることが起こる現実が教会にあるからです。伝道者は何よりもそのことに心痛めています。日本人は「信仰」を「信心」と混同します。「信心」は信仰の根が自分の内にあることです。従って、自分の内側なかりを見つめて、自分の信仰に絶望します。しかし、「信仰」は「信心」とは異なります。

 何故、罪のない主イエス・キリストがバプテスマを受けられたのか。これが説教の主題です。説教者はこのように語ります。主イエスの本当のバプテスマとは十字架にあった。今将に、主イエスは十字架に向かって歩みを始められた。その出発点、ご決意がヨハネから受けたバプテスマであった。罪なきイエス・キリストが十字架にかかり、私どもの罪をご自分の罪として引き受け、神の審きを受けられた。それ程の決意をしてまで、キリストは私ども罪人と一つになられた。その救いの出来事を私どもは既に洗礼を通して与っている。それ故、私どもの「外に」、キリストの「内に」、「信仰のリアリティ」「救いの確かさ」があるのです。それを毎週の礼拝で確認をするのです。

 ルカによる福音書のイエス・キリストの洗礼の出来事を、パウロのローマ書6章の洗礼の出来事への信仰、ローマ8章のキリストの十字架を通して示された神の愛から解釈することにより、神学的な骨格を組み立て、神学的な主題を明確にしています。洗礼をの教理を救いの確かさという生活と結び付けることにより、教理が生活化し、聴き手の心に響く言葉となっています。

 

3)冨山光一牧師の説教

経歴:1913年~2004年。三重県に生まれる。神戸中央神学校(現在の神戸改革派神学校)卒業。四日市教会、高知教会、佐伯教会、大阪常磐教会、鳥羽教会、山田教会で伝道・牧会された。1959年(昭和34)から30年間、父・冨山光慶牧師の後を継がれ、伊勢の山田教会で伝道・牧会。敗戦後の副牧師時代から数えれば43年間、山田教会で伝道・牧会された。

著書:『常盤幼稚園70年史』(常盤幼稚園、1987年)、『サラーム 戦争と私』(はりねずみ舎、1992年)、『冨山光慶の生涯』(山田教会、1990年)、『伊勢の伝道・山田教会の歴史Ⅰ・Ⅱ』(山田教会、2006年)。

説教集:『ルカ福音書説教集(2)』(上河原立雄編、聖恵授産所、1991年)、『だから恐れることはない』(金沢教会伝道説教集111989年)

 

②説教「だから恐れることはない」(19881122日 金沢教会)

 採り上げる説教は、19881122日、金沢教会での伝道説教です。これは冨山牧師の十八番の説教です。

山田教会で何度も説教されました。聖書はマタイによる福音書102433節です。資料7参照。(資料7446行目~534行目)

 冨山牧師の説教の主題も、「救いの確かさ」です。冨山牧師が愛用した言葉で言えば、「救いの確証」です。それは私ども人間の「内」にあるのではなく、私どもの「外」、キリストの「内」にある。上河原牧師も山崎牧師も皆、この点を強調しました。この救いの要を繰り返し説かないと、洗礼を受けても自分たちの救いに不安を感じてしまう日本人キリスト者が多いからです。

 冨山牧師が好んで用いた説教表現があります。「私たち罪人が天にいらっしゃる神を『父よ』と呼べるように、神さまの方が御子イエス・キリストにおいて完璧な手続きを執ってくださった。だから恐れることはない」。この説教表現は元々、植村正久牧師が用いた言葉です。「神は言うべからざる苦痛を嘗め、痛ましき手続きを経、身を犠牲に供して、人の為に赦罪の道を開きたり」(『植村正久全集』第4巻、331頁)。北森嘉蔵牧師が『神の痛みの神学』(教文館)を語る時に、好んで引用した植村の言葉です。

 冨山牧師が何故、説教で繰り返しこのことを強調されたのでしょうか。「私たち罪人が御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、天におられる神さまを『父よ』と呼べる神の子にしてくださったのです」。最初、私は分かりませんでしたが、次第に分かるようになりました。伊勢神宮の町で、伊勢神宮を魂の故郷とする日本人の聖地で、天皇を頭とする民族・同族的ムラ共同体という「古い共同体」を超えて、御子キリストを頭とする民族を超えた普遍的な「新しい共同体・教会」(エクレシア・カトリカ)を形成する。天皇の赤子として、天皇を「わが民族の父よ」と呼ぶ「古い共同体」を超えて、御子イエス・キリストの十字架の贖いにより、天にいらっしゃる神を「わが父よ」と呼ぶ神の子らの「新しい共同体・教会」の形成こそが、日本伝道の要であると捉えていたからです。

 

 元々、日本のプロテスタント教会は、横浜のバラの英語塾での初週祈祷会で、目に見える像も絵もないままに、見えざる神に向かって「天にますます我らの父よ」と呼ぶ新鮮な祈りの共同経験から始まりました。日本の教会が生み出した「カテキズム」に、『雪ノ下カテキズムー鎌倉雪ノ下教理・信仰問答』改定版(加藤常昭著、教文館、2010年)があります。日本のために伝道する日本人の手によって日本の教会のために作成された日本のカテキズムです。この『雪ノ下カテキズム』はドイツ語にも翻訳され、その題名が『日本カテキズム』となっています。『喜びのカテキズム』とも呼ばれています。どこに日本的な特色があるのでしょうか。それは問1問答に表れています。

1「あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか」。

 答 「私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、『私の父なる神、私どもの父なる神』と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらず私の父でいてくださり、私の喜び、誇りとなってくださいます」。

 『雪ノ下カテキズム』は教理の言葉であり、同時に、説教の言葉でもあります。しかも、日本人の魂に語りかける伝道の言葉でもあります。

 日本伝道の課題である天皇を頭とする民族・同族的ムラ共同体を超えて、御子キリストを頭とする民族を超えた普遍的な「新しい共同体・教会」を形成することは、説教において現れる重要な主題でもあります。そのことが冨山光一牧師の説教で明確に現われています。

 4)日本人の魂に受肉する言葉を求めて

地方伝道にいのちを懸けた三名の伝道者の説教を、「日本伝道という視点」から考察しました。三名の伝道者の説教に共通するものを、6つのキーワードで表わすことができます。「直截」「明晰」「簡潔」「平明」「情熱」「愛情」です。キリストを「直截」に伝え、説教の主題・骨格が「明晰」であり、語り口が「簡潔」であり、内容が「平明」です。そして何よりも説教者の「情熱」「伝道者魂」が説教の言葉に滲み出ています。また、会衆への「愛情」「会衆愛」「教会愛」という香を放っています。

 「私たち教会が語る言葉は日本人の魂に受肉するか」。その答えの一つが6つのキーワードにあると言えます。

 3.後世の最大遺物―結びに代えてー

NHKのEテレで、「100分で名著」という番組があります。今年の1月、内村鑑三の『代表的日本人』が採り上げられました。番組では『代表的日本人』の姉妹本である『後世の最大遺物』も採り上げました。これから世に出ようとする若者に向かって、18947月に、内村が語った講演です。それを私の講演の結びの言葉とします。

「今時の弊害は何であるかといいますならば、なるほど金がない、われわれの国に事業が少ない、良い本がない、それは確かです。しかしながら日本人がお互い今要求するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、

金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は、Life生命の欠乏であります」。

 内村が日本人が最も欠乏していると語るLifeは、心臓が動いている生命を意味しているのではありません。

神、人との関係が生きているという意味です。自分と他者との関係、自分と歴史との関係、すなわち、自分と過去の人々との関係、そして、自分と神との関係です。

「われわれは神がわれわれに知らしめたことをそのまま実行いたさなければなりません。こういたさねばならぬと思いたことはわれわれはことごとく実行しなければならない。もしわれわれが正義はいつも勝つものにして不義はついに負けるものであるということを世間に発表するものであるならば、そのとおりにわれわれは実行しなければならない。これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれは真面目なる生涯を送った人であるといわれることを、後世の人に遺したいと思います」。

 内村が大切にした生き方は「真面目なる生涯」「真摯な生涯」「真剣な生涯」です。それが「高尚なる勇ましい生涯」であり、後世の最大遺物です。

「もし私どもの一生涯の事業に何か意義があったといいますならば、それは準備的の事業であったと言うのであります。すなわち時勢に応じるためのものではなく、直ちに現代を賛(たす)くるためのものではなくして、将来の発展を助くるための基礎的工事に貢献するためのものであったと言うのであります」。

 私どもが生きている間に、伝道が完成し、教会形成が完成するものではありません。私どもの信仰の業は神の救いの歴史から見れば、小さな断片的なものに過ぎません。しかし、その小さな断片的な信仰の業を全て主に献げて生きるのです。それが次の時代の伝道、教会形成の準備となる。私どもは準備的な業に献身するのです。日本の国、日本人の救いである十字架のキリストを指し示しながら。

「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからである」(コリントの信徒への手紙一212節)。