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       2018.1.29.「説教セミナー開会礼拝説教」

                コリント一6:19~20、15:8~10

 

1.①木下牧師から、名古屋説教セミナーの案内が送られて来ました。そこに第31回という回数が記されていました。改めて、説教セミナーのこれまでの一回一回の学びの積み重ねを想い起こしました。様々な想い出が心によぎりました。名古屋説教セミナーに参加する私どもにとって、この南山学園研修センターは、説教道場のようなものです。この道場には、汗と涙が沁み込んでいます。私どもが語る説教が厳しく批判され、説教者としての自らの存在が何度も打ち砕かれた場所でもあります。私どもにとってこの道場は、伝道者・説教者としての召命の原点に立ち戻らされる場所でもあります。

 

②昨年、説教塾開塾30年を記念するセミナーが、代々木で開催されました。私の伝道者・説教者としての30数年の歩みは、説教塾の歩みと重なり合います。何度も何度もこの道場で、説教者としてぶつかり稽古をつけてもらいながらも、果して私の説教は変えられ、新しくなったのだろうかと問います。説教が変えられ、新しくなるということは、説教塾開塾30年記念セミナーの主題のように、日本伝道を切り拓く説教を語れるようになるということです。伝道できる説教になることです。受洗者を生み出す説教になることです。私自身の説教が果して、伝道できる説教となっているのだろうか。この日本で、伝道者・説教者として、甦りの主イエス・キリストから召された者として、その使命に誠実に応えて来たのだろうか。いや、十分に応え切れていない、自らの鍛錬の不十分さに気づかされます。この説教道場、主の御前に立ち戻った時に、いつも生じる悔い改めの思いです。

 

2.①私どもが伝道者・説教者として、自らの存在と言葉を重ね合わせる存在は、伝道者パウロです。特に、伝道者パウロが綴りましたコリントの信徒への手紙一、二は、パウロが伝道者として、説教者として、自らの存在と言葉をぶつけるように語った言葉が綴られています。キリスト教会最大の敵であったパウロに、甦られた主イエス・キリストがお会いして下さり、パウロを回心させ、キリストを伝える伝道者として召して下さった。その回心の出来事を、伝道者・説教者の視点から綴った言葉が、コリントの信徒への手紙一15章の御言葉です。ここに伝道者・説教者であるパウロの召命の原点があります。

 この手紙を結ぶに当たり、パウロはコリントの教会員に告げ知らせた福音を、もう一度知らせます。パウロが伝道者・説教者として存在を懸けて語った福音です。コリントの教会員が受け入れ、生活の拠り所としている福音です。この福音だけをしっかり覚えていれば、救われる福音です。最も大切なこととしてパウロが伝えた福音は、パウロにも伝えられ、受けたものです。すなわち、聖書に書いてあるとおり、キリストがわたしたちの罪のために十字架で死んだこと、葬られたこと、三日目に甦られたこと、ケファに現れ、12人に現れたことです。最初のキリスト教会を生かした福音となり、結実した教会の信仰告白となりました。

 しかし更に、パウロは教会の信仰告白に、自らにも現れて下さった甦りの主イエス・キリストとの出会いの出来事、回心の出来事を加えて、語ります。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。

 甦られた主イエス・キリストとお会いしたパウロに起きた出来事は、伝道者・説教者としてのパウロの誕生の出来事でした。それ故、パウロのこの信仰告白は、私ども伝道者・説教者の回心の出来事、信仰告白でもあります。伝道者・説教者としての私どもの召命の原点が、ここにあります。

 

②パウロの伝道者・説教者としてのこの回心の出来事、召命の原点の出来事を語り直した言葉が、同じ手紙の6章19節の言葉です。

 6章12節~20節がひとつのまとまりとなっていますが、伝道者・説教者の召命の視点からも見ることが出来ます。ここで繰り返されている言葉があります。「体」(ソーマ)です。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。

 甦られた主イエス・キリストとお会いした私どもは、キリストの体の一部とされました。ローマ書8章のパウロの言葉で言えば、私どもの体に、驚くべきことに、主イエス・キリストを死人の中から甦らせた神の霊が宿っている。私どもは神の霊、キリストの霊を宿す神の宮。それ故、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 「体」、それは言い換えれば、「存在と言葉」です。伝道者・説教者である私どもは、自らの内に宿り、自らを生かしている主イエス・キリストを甦らせた神の霊、甦られた主イエス・キリストを、自らの存在と言葉を懸けて証しし、語るのです。

 

3.①説教道場で何度もぶつかり稽古をつけてもらいながらも、なかなか説教の言葉が変わらない私ども説教者に向かって、加藤先生が綴られた書物があります。『説教者を問う』です。説教塾ブックレット1であり、2004年に出版されました。加藤先生の説教学の書物の中でも、私自身愛読している書物です。伝道者・説教者としての召命の原点に立ち戻らせてくれる書物です。説教が変わり、新しくなるためには、何よりも、説教者が変わり、新しくならなければならない。説教の言葉と説教者の存在とは、深く結び付いているからです。

この書物は、説教塾の原点にある「第二スイス信条」「神の言葉の説教は神の言葉である」を、「説教者」のパースペクティヴで説き明かされたものです。聖書正典、説教者の外的召命、聖霊の内的照明のパースペクティヴで、「神の言葉の説教は神の言葉である」ことが語られます。しかし、ボーレン先生は、第二スイス信条において、聖霊の内的照明が十分に展開されていないことを指摘されました。それを加藤先生は、説教者のパースペクティヴで捉え直されました。

 「神の言葉の説教は神の言葉である」。この命題の下にある文章はこのような内容です。

「従って、私たちはこのように信じる。今日、教会において、正しい手続きによって召された説教者によって、この神の言葉が宣べ伝えられるならば、そこでは、神の言葉そのものが宣べ伝えられ、信仰ある者たちによって受け容れられているのである。このほかにいかなる神の言葉も捏造されてはならず、また新たに天から神の言葉が聞こえてくることを期待してはならない。また今日、私たちが目を注ぐべきは、そこで説かれている神の言葉である。それを説く奉仕をしている者に目を注いではならない。説教者が悪を犯し、罪人であったとしても、それには全く左右されず、神の言葉は真実で、よきものであることには変わりはないのである。従って、真実の信仰は霊の内的な照明によるという理由で、このような外的な説教を不要なものと判断することは許されない」。

 「第二スイス信条」は、外的召命によって教会によって立てた、説教者が語る説教の神の言葉の客観性を強調しています。それ故、「神の言葉を説く奉仕をしている者に目を注いではならない。説教者が悪を犯し、罪人であったとしても」と語ります。そして「第二スイス信条」は次の項目で、「内的照明が説教を不必要なものとはしない」と、聖霊の内的照明に対して、消極的な語り方をしています。しかし、伝道者パウロは語りました。「説教者よ、知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。

アウグスティヌスとドナティストとの聖餐執行者を巡るサクラメントの論争、すなわち、事効的か、人効的かが、将に、神の言葉を語る説教者を巡っても問われているのです。フォーサイスは説教論において、「御言葉のサクラメント」と語りました。説教も甦られた主イエス・キリストの現臨を証しする出来事を起こすサクラメントの言葉である。それ故、サクラメントである聖餐が行われない礼拝であっても、神礼拝が成り立つ。そこに私どもプロテスタント教会の礼拝の信仰があります。加藤先生は更に問われるのです。サクラメントである説教を語る説教者も、サクラメンタルな存在ではないのか。私ども説教者に対する重い問いかけです。急所を突く問いかけです。

 

②『説教者を問う』、この書物の中で、こういう単元があります。「ホモ・リトゥルギクスとしての説教者の霊性」。「ホモ・リトゥルギクス」「神礼拝に生きる人間」。メラー先生が編集された『魂への配慮の歴史』第12巻「第2次世界大戦後の牧会者たち」に収録されています「ロシア正教会の牧会者・長老たち」で語られている言葉です。「神礼拝に生きる人間は、意識だけではなく、顔つきまで変わります。歩き方も、声も、まなざしも変わります。<礼拝本能>とも言うべきものが発達するはずである」。

 伝道者パウロは語りました。「説教者よ、知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の宮なのです」。説教者の存在そのものが、神礼拝に生きている。それ故、説教者の顔つきも、歩き方も、声も、まなざしも変えられている。

 

4.①今回の説教セミナーは、「日本の説教者たちの言葉」が主題です。十字架につけられ、甦られた主イエス・キリストを、自らの存在と言葉を懸けて日本人に語った15名の先人説教者たちの説教に聴きます。現代日本において、いかに十字架と復活の主イエス・キリストを語るか。加藤先生が1972年に綴られた『日本の説教者たち』の中心にある実践神学のパースペクティヴで、『日本の説教者たちの言葉』も編集されています。先人説教者たちの説教の言葉、日本伝道の言葉を、私どもも身に着けたいと願っています。

 

②最後に、自らの存在と言葉を懸けて、将に、キリスト道に生きた日本人キリスト者の言葉に耳を傾けたいと願います。大阪女学院の院長をされた西村次郎です。1979年11月22日、滝野川教会創立75周年記念礼拝において、「わが墓標」という説教をしています。この説教は信徒が行った説教では、日本説教史に残したい説教です。西村次郎はこの説教の後、病に倒れ、81歳で亡くなりました。将に、遺言説教です。キリスト道に生きた自らの存在と信仰が滲み出ている説教です。

 この説教の最後で、俳優の宇野重吉の対談を採り上げています。宇野重吉の故郷は福井でした。福井では越冬の準備として、大根を漬ける。沢庵を食べて冬を越す。正月を越すとぬかみそ臭くなって食えなくなる。そこでそれを刻んでしょうが醤油で食べる。これがうまい。それも食べれなくなると、今度は薄く刻んで唐辛子と醤油で炊いて、きんぴらにして食べる。これが本当にうまい。宇野重吉はこれを大根の大往生だと語る。大根も、ここまで食べてもらったら、大往生だ。同様に自分ももう使われ、使われて、もう最後までくたくたになるまで使われて、お役に立って死にたいものだ。そういう意味で、私は大根役者になりたいと語っている。

 その言葉に痛く感動した西村次郎は、こういう言葉で説教を結びました。「我々キリスト者も、もう本当にイエスさまのために仕えて、仕えて、もうくたくたになるまで、最後の最後まで仕えて、イエスさまの御苦しみ、くびき、痛みを本当に生涯負わせていただく、その栄光に生きるいのち、奉仕に尽きるいのちを、生きさせていただきたいと思うのであります」。

 私どもも今、説教道場に立ち、主の御前で、召命を新たにして、誓います。「主よ、我らを大根伝道者として用いて下さい。自らの存在と言葉で、神の栄光を現させて下さい」。

 

 お祈りいたします。

「甦られた主イエス・キリストが、使徒たちの中でいちばん小さい者、使徒と呼ばれる値打ちのないわたしにも現れて下さったのです。驚くべきことに、主イエス・キリストを死人の中から甦らせた神の霊が宿っている神の宮とされました。ただ神の恵みによって今日のわたしがあります。それ故、伝道者・説教者として、自らの存在と言葉によって、神の栄光を現すことが出来ますように。主よ、我らを主イエス・キリストのために仕えて、仕えて、もうくたくたになるまで仕える、大根伝道者として用いて下さい。

 この祈り、私どもの主イエス・キリストの御名により、御前にお捧げいたします。アーメン」。