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2016年 1月 18日~21日、説教者リトリートでの「伝道発題」


   
井ノ川勝牧師
  

2016年  1月18日~21日、説教者リトリートでの「伝道発題」

「私たち伝道者の言葉は日本人の魂に受肉するか」

―伊勢伝道30年を振り返っての懺悔録―

 

金沢教会牧師 井ノ川 勝

 

1.はじめに

1984年、東京神学大学を卒業した私は、三重県伊勢市にある日本基督教団山田教会に伝道師として遣わされた。以来、伝道師、副牧師6年、主任牧師24年、合計30年、伊勢の山田教会で御言葉を語り続けて来た。山田教会を辞任する決意を表明した時、会う人会う人から問われた。「隠退するまで山田教会で伝道すると思っていたのに、何故、転任する決意をしたのか」。表向きはこのように答えた。「山田教会で伝道して30年、常盤幼稚園創立100周年を迎え、一つの区切りと思い、転任を決意した」。「山田教会は冨山光慶牧師・光一牧師と親子で70年牧会され、隠退後も山田教会の礼拝に出席され、山田教会で葬儀を行った。教会員も当然、私に対してもそのようになることを望んでいる。しかし、それが果して教会にとって良いのかと判断したからである」。しかし、真意は違っていた。「私がこれ以上、伊勢で伝道しても伝道の進展は望めないと見切りを付けたからであった。自らの伝道者としての力の限界を痛感したためであった」。惨めにも敗残兵のように伊勢伝道から撤退したのが、真実の姿であった。

 伊勢伝道の進展が日本伝道の進展に繋がると信じ、30年間、伊勢伝道に励んで来た。しかし、伊勢伝道を一歩進めることは出来なかった。それは30年間の教勢の推移が如実に物語っている(資料1参照)。ご復活の主イエス・キリストから伊勢伝道に召されたにもかかわらず、そのご期待に応えることは出来なかった。山田教会の教会員に対して、申し訳ない思いでいっぱいである。何故、伊勢伝道を一歩進めることが出来なかったのか。もっとこうすれば良かったと、伝道の手立てを反省することもいっぱいある。しかし、何よりも問わなければならないことは、伝道者としての私が語った説教の言葉が、伊勢の町の人々に届かなかった、受肉しなかったことに尽きる。伊勢伝道30年を振り返り、この点をきちんと精査する必要があると思った。それなくして、金沢伝道も有り得ないと思った。引っ越しをする時、30年間、山田教会で語って来た説教原稿を全て廃棄した。今まで語って来たような説教では、金沢で伝道できないと思ったからである。今から私が語ることは、伊勢伝道30年を振り返った私の懺悔録である。伝道者として新たな御言葉を語るためにしなければならない懺悔録である。

私が初めて山田教会を知ったのは、東京神学大学在学中、学部4年生の時であった。『東京神学大学学報』の「若き後輩牧師へ」のシリーズに、山田教会の冨山光一牧師が執筆していました。「耕岩播種・魳の遠び焼き」という文章です(資料2参照)。一読して感銘を受けました。まさか神学校卒業後、山田教会に伝道師として遣わされるとは思ってもみませんでした。私の伊勢伝道の原点となった文章です。山田教会は伊勢神宮の町にありながら、また三重県の中でも6番目の人口10万の中都市である伊勢市にありながら、日本基督教団の教会として最も礼拝出席者の多い教会でした。その要因の一つが、教会と幼稚園とが一体となって伊勢の町に伝道していた点が挙げられます。常盤幼稚園は1913年(大正2年)アメリカのカンバーランド長老教会の教育宣教師ジェッシー・ライカーによって創立されました。受洗者の6割以上が、幼稚園と関わりのある方々です。

 さて、まず伝道の対象である伊勢という町がどのような町であり、その町でどのような伝道がなされて来たかを、簡潔に述べます。

 

2.伊勢という町

伊勢神宮には内宮と外宮とがあり、内宮は皇室の祖、天照大御神が祀られ、三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としている。外宮は穀物の神である豊受大御神が祀られている。元々は天照大御神に食物を供する神であった。内宮の周辺を宇治町、外宮の周辺を山田町と呼んでいた。山田教会は外宮の前にあるので、山田教会という名前が付けられた。現在、「山田」の名前が残っているのは、山田教会しかない。宇治町と山田町が合併し、宇治山田市となり、1955年(昭和30年)より伊勢市となった。伊勢神宮の町であることを強調する市名となった。

1996年は皇大神宮内宮鎮座2000年であった。20年に一度、御神体を新しい宮に移す遷宮が行われ、伝統の継承を行っている。私は伊勢在住30年で2度遷宮を経験した。伊勢在住最後の年が遷宮の年であった。伊勢の住民は神領民とされ、各家の玄関に「笑門」というお札としめ縄を一年中掲げ、伊勢神宮の神事を担う。遷宮も本来、伊勢神宮の氏子であり、神領民である伊勢の住民が担う神事であったが、今では「一日神領民」として神事を担う目的で全国から観光客を招いている。

 伊勢神宮は皇室と結び付き、全国にある神社の中でも特別な存在とされ、日本人の魂の故郷として位置づけられている。太平洋戦争中は国家神道の中心的存在とされた。毎年お正月には総理大臣が参拝し、政教分離が問われている。今年5月、伊勢志摩サミットを決めた背後にも、日本人の魂の故郷であり、皇室と結びついた伊勢神宮を根幹とする神道的・天皇制的「日本的なもの」の復興を海外にアピールする目的が、安倍首相にあったからではないか。

 江戸時代までは伊勢の町には多くのお寺が存在していたが、廃仏毀釈によりお寺がことごとく潰され、現在は市内に僅かなお寺し存在しない。伊勢市においては葬儀の7割が神道式で行われる。ご遺体を火葬に伏し、お骨にしてから、神宮の斎場に運び、葬儀を行う。死者の魂はお祓いにより、汚れた肉体から導き出され、祖霊となって神宮の森に宿り、子孫を見守る。

伊勢市の人口は長く10万人以上であったが、徐々に減少し、10万人を切った。10年前、周辺町村との合併により、人口13万人となった。戦前は紡績工場、造船工場があり、戦争中は軍事工場があり、町は活気を呈したが、戦後は第3次産業の転換により、観光産業が主流となった。そのため若者の多くが県外に流出し、就職している。転勤のため、伊勢市に来られる方は僅かな人数しかいない。

 

3.伊勢の伝道・山田教会の歴史

町の入口に宮川が流れている。昔は津方面から歩いて、あるいは籠や馬に乗って宮川岸まで来て、それから磯の渡し舟に乗り換えて、この町に入り、伊勢参りをした。この町には、「宮川より邪宗門の徒は一歩も入れじ」という血書誓約が交わされた町であった。そのような伊勢神宮の町に、どのようにしてキリストの福音を運んで来たのか。最初にキリストの福音を運んだのは、女性信徒でした。この町出身の渡部フミは1889年(明治22年)大阪教会で宮川経輝牧師より洗礼を受け、執事にもなりました。故郷に戻って伝道しようという機運が大阪教会で沸き上がり、渡部フムは初めて宮川を越えて、キリストの福音をこの町に運びました。渡部フミの伊勢伝道を助けたのは大阪教会を中心とする組合派の日本伝道会社とアメリカンボードでした。1891年(明治24年)組合教会は服部六衛門(後に堀と改姓)を伝道者として派遣しました。伊勢の町の伝道者第1号です。この頃に講義所が開設されました。ところが、この町の伝道は困難を極めました。やがて組合派は伊勢伝道から手を引いてしまいました。

伊勢伝道を新たに志したのは、A・D・ヘール、J・B・ヘールを中心とするカンバーランド長老教会でした。ヘール兄弟は大阪を中心として伝道し、やがて紀州から志摩半島一帯を隈なく伝道しました。ヘール兄弟の足跡がないところはないと言われる程でした。「わらじ履きの伝道者」と呼ばれました。志摩半島の伝道は主に、兄のA・D・ヘールが行いました。カンバーランド長老教会の伝道は、日本人の魂の故郷である伊勢神宮の町にキリストの教会を建設することでした。いきなりそれをすることは困難である。そのため伊勢伝道の入口に教会を建設しました。日本基督教会四日市教会が、1890年(明治23年)三重県で最初の教会として建設されました。この教会に招聘されたのが、中須晴胤でした。

 中須晴胤は伊勢神宮社家の出身です。中須家は明治の初めの廃仏毀釈運動により、伊勢から追放され、函館に移住しました。「神仏習合」を擁護し、「両部神道」を唱える社家は、「復古神道」に立つ「神仏分離政策」により迫害されました。中須晴胤は後に函館教会の牧師になります。同じ伊勢神宮の社家であった河井家も、廃仏毀釈運動により、伊勢を追放され、函館に移住しました。後に恵泉女学園を創立された河井道は中須晴胤の姪に当たります。河合道の母・菊枝は中須晴胤の従妹に当たります。中須晴胤が河井家にキリストを伝道したと言われています。河井菊枝は後に、郷里である宇治山田の近くにある度会郡内城田に帰られ、伊勢伝道を担う中心的な信徒となります。

 1890年(明治23年)日本基督教会四日市教会に招聘された中須晴胤は、四日市教会を拠点として、伊勢伝道に出張し、その2年後、浪速中会の要請を受け、故郷の宇治山田の山田講義所の主任者となった。かつて伊勢の町から追放された中須晴胤が今やキリストを伝える伝道者となり、伊勢神宮の町に戻って来た。神の摂理を感じます。日本基督教会山田講義所が正式に設立されたのは、1897年(明治30年)です。現住陪餐会員24名という記録が残っています。来年、宗教改革500年が、山田講義所設立120年に当たります。

教会堂が建設されたのは、福井捨助伝道者の時代でした。今日の外宮の前の岩岩渕町の土地を購入し、そこに教会堂を建てました。教会員にとって礼拝する教会堂が与えられた喜びと共に、教会堂の屋根に十字架を掲げることが念願でした。ところが町の人々は、伊勢神宮の前に十字架を掲げることを許しませんでした。そこで教会員は教会堂の軒瓦全てに十字を刻み、ここにキリストの教会があることを示しました。「十字瓦の教会」と呼ばれるようになりました。今の教会堂は1971年に建てられましたが、先達の信仰を受け継ぐために、玄関の壁に十字瓦が埋め込まれています。

山田教会には常盤幼稚園があります。アメリカのカンバーランド長老教会の教育宣教師ジェッシー・ライカーにより、1913年(大正2年)に創立されました。伊勢で初めての幼稚園でした。幼児教育を通して、伊勢の町にキリストの福音を各家庭に伝えて行こうと志しました。常盤幼稚園が設立された頃、山田伝道教会に派遣されたのは長山萬治です。長山萬治は日本基督教会金沢教会から派遣されました。教会から伝道教会に派遣されることは有り得ないことですが、病気がちの長山萬治が寒冷地北陸からの転任を希望したと思われます。1911年(明治44年)に赴任し、牧師館で喀血し、1919年(大正8年)に逝去しています。この時代、常盤幼稚園と共に、ライカー宣教師の協力を得て、伊勢伝道が進展しました。旧制山田中学の入江教諭が山田教会会員ということもあり、山田中学の学生、山田女学校の女学生が多く教会へ導かれました。

長山萬治の後、秋保孝蔵が1920年(大正9年)~1922年(大正11年)2年間伝道し、その後1923年(大正12年)冨山光慶が派遣されました。1925年(大正14年)念願の日本基督教会山田教会が建設されました。冨山光慶は三重県亀山市の天台宗の長賢寺円明上人の長男として誕生し、仏教の修行中、A・D・ヘールより洗礼を受け、キリストを伝える伝道者となりました。そして伊勢神宮の前で37年間、戦前、戦中、戦後という激動の時代、一筋の心をもってキリストを伝えました。

 冨山光慶牧師は、戦前はジェッシー・ライカー宣教師と、戦後はジョンソン宣教師一家を伊勢に招き、宣教師と共に伊勢伝道を行った。宣教師とよき協力関係をもって伝道したことが伝道の進展と結び付いた。

ジッシー・ライカーは伊勢で骨を埋めるためお墓を購入していました。全財産を常盤幼稚園と山田教会に注ぎ込みました。しかし、太平洋戦争が勃発しますと、敵国人としてアメリカに強制送還させられました。35年間いた第2の故郷を一人寂しく後にしました。戦後再び伊勢に来られることはありませんでした。

ライカー選宣教師が創立した常盤幼稚園は、私の伊勢最後の年の2013年、創立100周年を迎えた。ライカー宣教師の個人立幼稚園で始まり、ライカー宣教師強制送還後は冨山光慶牧師の個人立幼稚園となり、戦後、冨山光一園長時代に宗教法人山田教会附属幼稚園となり、私の園長時代に学校法人となり、今日に至っている。在園児25名の幼稚園だが、教職員5名全員教会員、理事は山田教会牧師・長老、評議員は山田教会会員となり、教会と幼稚園とが一体となって伊勢伝道を行っている。

冨山光慶牧師の後を長男の冨山光一牧師が受け継がれ、1947年(昭和22年)~1990年(平成2年)副牧師時代と合わせ43年間、伊勢伝道に励まれた。私は1984年(昭和59年)~2014年(平成26年)伝道師・副牧師を含めて30年間、伊勢伝道を行った。

 中須晴胤3年、馬場正毅、鐘田安通、福井捨助4年、長山萬治8年、秋保孝蔵2年、冨山光慶37年、冨山光一43年、そして私が30年、伊勢伝道はこれらの伝道者と歴史に名前が記されていない多くの信徒たちにより担われて来た。20144月より名古屋北教会より招聘された渡部和使牧師、渡部信子牧師が伊勢伝道を担っている。

 

4.地方で伝道した伝道者の説教の考察

伊勢伝道30年、十分な伝道の成果を上げられず、伝道者として挫折した私は、20144月、真宗王国北陸金沢に遣わされた。伊勢伝道30年で語って来た説教では金沢伝道は通用しない。新たな説教の言葉を求めて行かなければ伝道者として立つことは出来ない。金沢伝道の出発に当たり、出会った文章がありました。2012年、キリスト教本屋大賞を受賞したカトリックの信徒・山浦玄嗣(げんし)著『ガリラヤのイェシュー』(イー・ピックス出版)です。岩手県気仙地方の方言ケセン語で4つの福音書を翻訳した意欲作です。この翻訳に登場する人物はケセン語だけでなく、北は津軽から南は薩摩まで各地のふるさとの言葉、謂わば、「世間」の言葉を話す人物が登場します。この本の前書きで、カトリック仙台教区の平賀徹夫司教がとてもよい序文を書かれています。

 「『ふるさとの仲間に敬愛するヤソのことを伝えたい』との並々ならぬ思いに衝き動かされて山浦氏は、頭ではひととおりの理解はできるというだけの言葉ではなく、ふるさとのことばこそ『ヤソの言葉を腹の奥までも響かせる力強いことば』であるとして、ケセン語に翻訳して提供するという前代未聞の試みを敢行したのでした。人がキリストの福音を福音として受け止めることができ、そしてそれが他者に伝わっていくことにもなっていくのは、頭だけではなく腹の奥底で味わうことができ、そしてその宝を心から、腹の底から溢れてくる自分のことばで表現することができて初めて可能となるでしょう。自分のふるさとがどこであろうとも、人はそれぞれに腹にストンと落ちる自分のことばでもって聖書に関わっていくことができること、こうして福音が文字通りどのような人にも向けられる普遍的な『よいたより』であることの一つの証明にもなっていくようです」。

 キリスト教会の誕生、キリスト伝道の出発点である聖霊降臨の出来事を想い起します。

 「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞き、あっけにとられた。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』」(使徒言行録268節)。

 聖霊降臨の出来事は、福音(よいたより)がふるさとの言葉で語られ、福音が腹の奥までも響かせる力強い言葉となった出来事です。福音がふるさとの言葉となって、その土地の人々の魂に受肉した出来事です。私ども伝道者が語る言葉が、その土地の人々の腹の奥までの響かせる、生活を変革する言葉を語り得ているか否かが問われています。

伊勢伝道30年で、私の語る説教の言葉が何故、伊勢の町の人々の魂に受肉する言葉となり得なかったのか。この点を考察するために、地方で一筋に伝道した三名の先輩伝道者の説教を採り上げる。いずれの伝道者も「日本伝道の要点」を押さえた説教をしている。地方に生きる日本人の心に届き、魂に響く言葉・説教を語っている。私の説教に欠けていた点がここにある。

 日本キリスト教団出版局が『日本の説教』で第一集に13名、第二集に14名の説教者を採り上げている。その多くは都会の教会の伝道者の説教である。私は地方で一筋に伝道して来た伝道者の説教をまとめた『日本の説教 地方版』が必要ではないかと考えている。採り上げる三名の伝道者は金沢伝道に励んだ上河原雄吉牧師、高知伝道に励んだ山崎祐博牧師、伊勢伝道に励んだ冨山光一牧師である。全国に名前は知られていないが、このような名前の知られていない地方の伝道者が、日本伝道を支えて来たことを忘れてはならない。三名の伝道者の説教を「日本伝道という視点」から考察する。いずれも「日本伝道の要点」を押さえた説教をしている。

 

1)上河原雄吉牧師の説教

経歴:1898年~1982年。京都市に生まれる。大阪の同志館神学校(大阪神学院)卒業。新宮教会、田辺教会、高芝伝道所、鳥取伝道所、津伝道教会、そして金沢教会で1941年(昭和16年)から30年間、伝道・牧会。生涯「田舎牧師」であることを誇りとした。

遺稿集:『救いの岩―上河原雄吉牧師遺稿集―』(金沢教会)

元金沢教会長老の深谷松男長老が、『説教黙想アレテイア』51号「牧会者のポートレイト」のシリーズで「上河原雄吉」(102104頁、日本キリスト教団出版局、2006年)を執筆された。その中で、上河原雄吉牧師の説教の特徴に触れている。その特徴は何よりも、「文飾よりも骨組み」であったと指摘している。

 「先生は何よりも説教に心身を打ち込まれた。その説教は福音の急所を指し示し無駄のない、神学的構築の堅固な、その意味で飽きのこないものであった。先生自身、説教にはその神学的組み立てを最も重視していると言われた。・・先生の説教は、いわゆる雄弁な説教ではなかった。生来の歯切れ悪い発音のため聞き取りにくかったが、心耳を傾けているうちに、福音の深みに迫る極めて滋味豊かな説教であったことに気づくのであった。何と言っても、その主題ないし焦点が確かな福音主義信仰に収斂するものであったがゆえに、明解であった。豊かな思想史の知識を背景に論争的に導入を組み立てられることが多かったが、これも説教の主旨の在りかを示し、また随所に、揺るぎないものに裏打ちされた先生独自の言葉が加わって、深く食い込むのであった。しかも、福音を説く喜びが先生から自ずと滲み出て、それがまた聴く者の心を高めた」。「先生の信仰は、まさにキリスト信仰であり、説教では『キリストにあって』が口癖のように出てくるのであった」。

 生来の歯切れの悪い発音のため聞き取りにくく、雄弁な説教ではないという説教者の欠点を持ちつつも、努力してその欠点を克服し、福音の深みに迫る極めて滋味豊かな説教を語った。生来訥弁であった植村正久が、その欠点を克服し、やはり福音の深みに迫る滋味豊かな説教を語り、日本を代表する説教者になったことと通じる。そしてその説教の核心は常にキリスト中心の説教であった。キリストを日本人に紹介することに、喜んで、自分の欠点をも含んだ全存在を賭けて集中したのである。

③説教「基督礼拝と偶像崇拝」(1935415日、津伝道教会)

 採り上げる説教は、1935年(昭和10年)415日、太平洋戦争前の説教で、津伝道教会でなされたものである。この説教に表れた福音理解は、真宗王国金沢の地での伝道、金沢教会時代まで引き継がれていると言える。その意味で、上河原牧師の代表的な説教である。『救いの岩―上河原雄吉牧師遺稿集―』の冒頭に掲げられた説教である。聖書の箇所は挙げられていない。資料3参照。

資料31139行目。説教の冒頭は深谷長老が指摘するようにキリスト論論争から始まる。1935年の説教なので、バルト神学の影響を受けている。自由主義神学の人間の経験に立つのではなく、神の啓示に立つ神学を基調として説教を展開している。キリストを主観的に捉えるか、客観的に捉えるか。この点こそが、教会が立ちもし倒れもする信仰の要である。何の導入もなく、いきなり主題から切り込む。信仰の核心はキリストと出会うこと。キリストが私と出会ってくださることにあるからである。

 いきなり主題から語り始める。しかし、神学の王道であるキリスト論論争を聴き手の身近な譬えを用いて語っている。それ故、聴き手は抵抗なく説教に入って行ける。しかも、日本の教会の信徒が陥りやすい急所にいきなり入って行く。教会の信仰と対立する個人の信仰、主観的な信仰です。人間の要求が先に立ち、自分の満足する洋服を買い求め、時流に合った服を追い求め、時代遅れの服を脱ぎ捨てて行く。しかし、教会の信仰は人間の要求が先にも中心に立つのでもなく、神の主権に服すること。野路に迷い、家路に帰れない盲人に、キリストが近寄り、家路に着かせてくださる。「それこそ、地獄に仏である」。慣用句だが、説教にこの表現を用いることは驚き。上河原牧師のユーモアです。そこには人間の要求が先に立つのではなく、ただ感謝してキリストに従うのみ。神の主権に服するのみ。改革派の信仰が現れている。

資料3140行目~39行目。説教の本論である。実に教理的な説教である。しかし、聴き手には説教の言葉が頭の上を素通りしなかったであろう。なぜならば、教理が生活化した言葉になっているからである。ただ教理を説くのではなく、聴き手の生活の中で説いているので、説教の言葉が聴き手の心に響いたに違いない。説教の主題は「イエスは誰か」という教理の中核である。ここに教会のいのちが懸っている。この教理の主題を、人間の神化という偶像崇拝に生きる日本人の宗教心と触れ合わせながら語るのである。

 イエスは神ではなく、天父を示された神より劣った神の子、あるいは人類の教師、預言者。教理史におけるキリスト論論争は過去の問題ではなく、まさに日本伝道のいのちに関わる問題である。キリスト教会もユダヤ教と同じく、偶像崇拝を排斥した。しかし、イエスをキリスト、神として礼拝することは、偶像礼拝に通じるのではないかと、ユダヤ教から激しく問われた。キリスト教会はこの困難な問題を引き受けなければならなかった。イエスは人間が神化したのではなく、神の人間化である。イエス・キリストとお会いすることは、「わが主、わが神よ」と、神とお会いすることである。人々にとって躓きとなるこの信仰を、自国歴史の伝統上に困難があろうと、将来の伝道上不自由を感じようと、ここに救いのいのちがあると信じて引き受けたのである。「直截に云って、基督教信仰は基督礼拝である」。ここに教会の信仰のいのちがあり、日本伝道の要がある。説教の言葉に伝道者のいのち、気迫がこもっています。教理の言葉に伝道者のいのちと愛が注がれています。ドグマとライフの一体化が説教に滲み出ています。

 「直截に云って、基督教信仰は基督礼拝である」。これは名言です。教会の信仰のいのちが、この一言で言い表されています。1935年の戦前の説教ですから、日本基督教会時代の説教です。上河原牧師を支えた信仰が「日本基督教会信仰の告白」でした。その冒頭の告白の言葉を想い起します。「我等が神と崇むる、主耶蘇基督は、神の独子にして、人類のため、その罪の救ひのために、人となりて苦を受け我等の罪のために、完全き犠牲をささげ給へり」。日本人が日本において自分たちの言葉で始めて告白した信仰の言葉です。1890年(明治23年)のことです。この年には「教育勅語」が制定され、前年には「大日本帝国憲法」が発布され、天皇を神と崇める法的な枠組みにより、日本の国の形が構築される中、「我等が神と崇むる、主耶蘇基督」と信仰を告白した当時の教会に感服します。当時の教会の信仰の姿勢、伝道者の伝道の姿勢が、上河原牧師の説教に滲み出ています。

 

2)山崎祐博牧師の説教

経歴:1916年~現在。高知県に生まれる。日本神学校(東京神学大学)卒業。高知の香美教会で50年間伝道・牧会された。四国教区の伝道委員長、香長伝道圏で説教の指導に当たられた。

説教集:『山崎祐博説教集』(香美教会)

1988113日、八王子の大学セミナーハウスで行われた東京神学大学主催教職セミナーで、「四国のある田舎伝道」という題で特別講演をされた。その内容が『東京神学大学学報』148号(1988225日)に紹介された(資料4)。冨山光一牧師の『東京神学大学学報』「若き後輩牧師へ」の文章と同様、伝道者としての私に大きな感銘と回心を与えた文章である。この講演で、香美教会で伝道者として2度の回心をしたことを証ししている。そのことが自らの説教に大転換をもたらしたと告白している。

1の回心。資料41段目1行目~3段目8行目。山崎祐博牧師のこの言葉は共鳴するところ多い。私も伊勢伝道30年、伝道者としての自らの貧しさ、説教の貧しさに打ちのめされた。御言葉を語っても語っても、教勢は伸びない。むしろ減少して行く。私は伝道者として何をやっているのだと自問自答する毎日であった。詰まるところ、「まことに主がここにおられる」という主の現臨を本気で信じていなかったのだ。池の水面に写った神学だけで、神を、キリストをつかみ取り、それで説教できる、伝道できると思い上がっていただけなのである。知識や技法を身に着けるだけでは、真実に説教とはなり得ない。「まことに主がここにおられる」という主の現臨を、ただ畏れをもって、全存在で証言する。説教は「証言の言葉」なのである。

2の回心。資料43段目9行目~最後まで。ルードルフ・ボーレンは『説教学Ⅱ』(加藤常昭訳、日本キリスト教団出版局、1978年、1982年)で、説教者が説教をする時、「聴き手の創造的発見」の大切さを訴えた。この一人の聴き手に届く言葉を語れば、全ての礼拝の聴き手の心に響く、そのような聴き手の創造的発見が重要なのである。山崎牧師にとり、その聴き手こそ、かなり高齢になるまで読み書きができなかったおばあさんであった。説教者のエンジン=聖書の釈義、神学がフル回転しても、信徒との関係、関わりというクラッチが正常に作動していなければ、説教、牧会、教会という車は動かない。聞く者が本当に理解し、納得する言葉を絶えず要求し、説教が上すべりすることを許さなかった。更に、譜の読めないこのおばあさんが腹の底から歌える讃美歌を、唯一知っている土佐の民謡「よさこい節」に曲を付けて歌い、また新たに作詞した。福音の生活化という出来事が、礼拝、説教で起きなければ、伝道は進まない。

 私の伊勢伝道30年の歩みは、同時に、説教塾30年の歩みと重なり合う。説教塾での学びを通して、打ち砕かれ、説教者として成長させていただいたことを感謝している。しかし、伊勢伝道30年を振り返った時、山田教会員という聴き手の中に「創造的聴き手の発見」を正しくしていなかったのではないかと反省している。山田教会教会員という聴き手以外に、説教塾という聴き手が知らず知らずに内におり、その批評に耐え得るような説教をしなければという思いを持ちながら、無意識のうちに説教を作成していたのではないかと思う。説教者である私自身の問題である。

⑤説教「キリストの受洗」(1985811日、香美教会)

 採り上げる説教は、1985811日、香美教会でなされた晩年の説教「キリストの受洗」、ルカによる福音書32122節である。

 資料5334行目~419行目。山崎牧師の回心の記でも語られていたように、伝道者としての生涯の課題である「信仰のリアリティ」「信仰の確かさ」「救いの確かさ」が、この説教の主題となっている。これは教会改革の原点となった主題であり、日本の教会に生きるキリスト者に絶えず問われる問題である。洗礼を受けキリスト者になった教会員が、救いの確かさが不明確になり、しばしば教会から離れることが起こる現実が教会にあるからである。伝道者は何よりもそのことに心痛めている。日本人は「信仰」を「信心」と混同する。「信心」は信仰の根が自分の内にある。だから自分の内側ばかりを見つめて、自分の信仰に絶望する。しかし、「信仰」は信心とは異なる。

 何故、罪のない主イエスがバプテスマを受けられたのか。主イエスの本当のバプテスマとは十字架にあった。今から十字架に向かって歩いて行く、その出発点、決意がヨハネから受けたバプテスマであった。罪なきイエス・キリストが十字架にかかり、私の罪をご自分の罪として引き受け、神の審きを受けられた。それ程の決意をしてまで、キリストは私たち罪人と一つになられた。それが私たちが既に与った洗礼の出来事である。私の「外に」、キリストの「内に」、「信仰のリアリティ」「救いの確かさ」がある。それを毎週の礼拝で確認する。

 ルカ福音書のイエス・キリストの洗礼の出来事を、パウロのローマ書6章の洗礼の出来事を意味する言葉、ローマ書8章のキリストの十字架の出来事を通して示された神の愛から解釈することにより、神学的な骨格を組み立てている。洗礼の教理が救いの確かさという生活と結び付けることにより、教理が生活化し、聴き手の心に響く言葉となっている。

 

3)冨山光一牧師の説教

経歴:1913年~2004年。三重県に生まれる。神戸中央神学校(神戸改革派神学校)卒業。四日市教会、高知教会、佐伯教会、大阪常磐教会、鳥羽教会、山田教会で伝道・牧会。1959年(昭和34年)から30年間、父・冨山光慶牧師の後を継がれ、伊勢の山田教会で伝道・牧会。戦後の副牧師時代から数えれば43年間、山田教会で伝道・牧会された。

著書:『常盤幼稚園70年史』(常盤幼稚園)、『サラーム 戦争と私』『冨山光慶応の生涯』『伊勢の伝道・山田教会の歴史Ⅰ・Ⅱ』(山田教会)。

説教集:『ルカ福音書説教集(2)』(上河原立雄編、聖恵授産所)、『だから恐れることはない』(金沢教会伝道説教集11)。

②説教「だから恐れることはない」(19881122日、金沢教会)

 採り上げる説教は、19881122日、金沢教会での伝道説教です。これは冨山牧師の十八番の伝道説教です。山田教会でも何度も説教されました。聖書はマタイによる福音書102433節です。資料6参照。

 資料6446行目~534行目。冨山牧師の説教の主題も、「救いの確かさ」である。冨山牧師が愛用した言葉で言えば、「救いの確証」である。それは私ども人間の内にあるのではなく、神の内にある。上河原牧師も山崎牧師も、皆この点を強調した。この点を繰り返し説かないと、洗礼を受けても自分たちの救いに不安を感じてしまう日本人が多いからである。

 冨山牧師が好んで用いた説教表現がある。「私たち罪人が天にいらっしゃる神を『父よ』と呼べるように、神さまの方が御子イエス・キリストにおいて完璧な手続きを執ってくださった。だから恐れることはない」。この説教表現は元々、植村正久牧師が用いた言葉です。「神は言うべからざる苦痛を嘗め、痛ましき手続きを経、身を犠牲に供して、人の為に赦罪の道を開きたり」(『植村正久全集』第4巻、331頁)。北森嘉蔵牧師が『神の痛みの神学』(教文館)を語る時に、好んで引用した植村の言葉です。

 冨山牧師が何故、説教で繰り返しこのことを強調されるのか。「私たち罪人が御子イエス・キリストの十字架の贖いによって、天におられる神さまを『父よ』と呼べる神の子にしてくださったのです」。最初、私は分かりませんでしたが、次第に分かるようになりました。伊勢神宮の町で、伊勢神宮を魂の故郷とする日本の地で、天皇を頭とする民族・同族的ムラ共同体という「古い共同体」を超えて、御子キリストを頭とする民族を超えた普遍的な「新しい共同体・教会」(エクレシア・カトリカ)を形成する。天皇の赤子として、天皇を「わが民族の父よ」と呼ぶ「古い共同体」を超えて、御子イエス・キリストの十字架の贖いにより、天にいらっしゃる神を「わが父」と呼ぶ神の子らの「新しい共同体・教会」の形成こそが、日本伝道の要にあると捉えていたからである。しかし、私が語る説教の言葉は閉鎖的なムラ共同体に生きる伊勢市民の魂にとっては、「異質な言葉」に留まり、閉鎖的ムラ共同体を変える言葉を語り得なかった。

 元々、日本のプロテスタント教会は、横浜のバラの英語塾での初週祈祷会で、目に見える像も絵も印もないままに、見えざる神に向かって「天にまします我らの父よ」と呼ぶ新鮮な祈りの共同経験から始まりました。日本の教会が生み出した「カテキズム」に、『雪ノ下カテキズムー鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』改定版(加藤常昭著、教文館、2010年)があります。日本のために伝道する日本人の手によって日本の教会のために作成された日本のカテキズムです。この『雪ノ下カテキズム』はドイツ語にも翻訳され、その題名が『日本カテキズム』となっています。『喜びのカテキズム』とも呼ばれています。どこに日本的な特色があるのでしょうか。一つは既に問1の問答に表れています。

 問1「あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか」。

 答 「私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、『私の父なる

神、私どもの父なる神』と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらず私の父で

いてくださり、私の喜び、誇りとなっていてくださいます」。

 『雪の下カテキズム』は教理の言葉であり、同時に、説教の言葉でもある。しかも、日本人の魂に語りかける伝道の言葉でもある。「日本伝道」のパースペクティヴから、『雪ノ下カテキズム』の言葉を分析することが、私ども伝道者の課題であると思っている。

 

5.おわりに

加藤常昭先生が繰り返し語り、説教塾の合言葉になっている言葉がある。植村正久のこの言葉である。「説教の目的は真正面からイエス・キリストを紹介することにある」。今、私どもが考察して来た三名の生涯地方で伝道した伝道者の説教に共通する点は、「キリストのリアリティ」が明確な説教であり、生き生きと自由にイエス・キリストを紹介している。イエス・キリストによって救われた喜びを存在をもって、しかも教理的な骨格を持ちつつ聴き手の生活に根ざした言葉で、それぞれの個性ある言い回しで説教している。

 三名の伝道者の説教の特徴を6つのキーワードで表わすことができる。「直截」「明晰」「簡潔」「平明」「情熱」「愛情」である。キリストを「直截」に伝え、説教の主題・骨格が「明晰」であり、語り口が「簡潔」であり、内容が「平明」である。そして何よりも説教者の「情熱」「伝道者魂」が説教の言葉に滲み出ている。また、会衆への「愛情」「会衆愛」「教会愛」が香っている。

 説教学において、説教を成り立たせる要素は4つある、「神の名」「聖書」「説教者」「聴き手」である(加藤常昭『説教批判・説教分析』教文館、2008年)。それに当てはめれば、キリストを「直截」に伝えることが「神の名」、説教の主題・骨格が「明晰」は、「聖書」、語り口が「簡潔」で、内容が「平明」で、「会衆愛」「教会愛」が香っているが「聴き手」、説教者の「情熱」「伝道者魂」が「説教者」となる。日本人の魂に受肉する福音の言葉をいかに語るのか。その要点がここにある。

 今日、多くの説教者の説教集が出版され、説教学の書物も出版されている。先輩伝道者に比べれば、私ども伝道者は恵まれた環境にある。しかし、私どもの説教は先輩伝道者と比べ、力ある説教を語っているのだろうか。説教者の個性が表れない画一化された説教になっていないだろうか。そのような説教程、退屈な説教はない。もっと自由に、もっと大胆に、説教者の個性が、存在が全面に現れた説教を語るべきではないだろうか。聖霊が大胆に、自由に、私ども伝道者に説教を語らせて下さるように!

加藤常昭先生が説教塾での様々な講演において、私ども説教者が立戻るべきバルトの言葉を引用される。バルトが19231933年、ボン大学で行った説教学講義における「説教の聖書的性格」の中の「説教者の可動性」である。それをここでも想い起す。

 「説教者は動きやすい人間でなければならない。ドイツ民法の中に国家の考えが固定されるという意味で、聖書は神の言葉であるわけではない。本来われわれはこう言わなければならない。聖書は神の言葉になる。神の言葉になるそのところで、神の言葉なのである。この出来事が大切なのである。神の言葉をどこで読みとったとか、聖書そのものが神の言葉であるということが問題になるのではない。聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。そうなると、可動性ということの意味は、この運動の中に身を投じなければならないということである。これに没頭し、それによって導かれ、さまざまな発言をし、段階をきざむ聖書全体によって導かれるということである。聖書が正典であるという事実が言おうとするのも、結局のところは、教会が聖書の諸文書を、神の声を聞きうると期待してよい場所と理解したということなのである。説教者の取るべきよい態度というのは、逐語霊感説に固執するかどうかによって決まるわけではない。神がここで自分に語りかけてくださることを期待しているかどうかにかかるのである。この期待は、積極的なものである。それは常に新しい献身的没入である。相手が自分を見つけてくれるために、自分から探しに行くのでありる」(K・バルト著、加藤常昭訳『神の言葉の神学の説教学』9899頁、日本キリスト教団出版局、1988年)。

最後に、伝道者パウロの「伝道者魂」が表れている言葉に耳を傾け、私の伝道に関する発表を終える。私たち伝道者の日本伝道も、この言葉に尽きます。コリントの信徒への手紙一118節~22節。