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2016年 6月 2日  石川地区聖書セミナー


   
井ノ川勝牧師
  

2016年  6月 2日  於:金沢元町教会

「信仰と生活の道標としての十戒」 

金沢教会牧師 井ノ川 勝

 

1.一つの問い

①今から7年前の2009年は、プロテスタント日本伝道150年の記念の年でした。明治初期、アメリカのプロテスタント教会の宣教師が日本にプロテスタントの信仰を伝えてから150年が経ちました。それらの宣教師の中に、金沢教会の信仰のルーツとなりました米国長老教会宣教師、ヘボン、タムソン、カローザス等、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、ブラウン、シモンズ、フルベッキ、バラ等がいました。それらの宣教師による日本伝道の柱は礼拝でした。どのような礼拝を捧げるかでした。礼拝において日本人に伝道する。それは祈り、讃美歌、聖書朗読、説教からなる簡素な礼拝式でした。まず、聖書を日本語に翻訳すること、讃美歌の歌詞を日本語に翻訳すること、日本語で説教することが急務でした。更に、米国長老教会宣教師、アメリカ・オランダ改革教会宣教師が重んじたことは、教会の信仰にとって欠くことの出来ない三要文(使徒信条、主の祈り、十戒)を日本語に翻訳し、礼拝で告白することでした。既に日本伝道の初期の頃より、礼拝の中で使徒信条、主の祈り、十戒が告白されていたことは驚きです。米国長老教会宣教師、アメリカ・オランダ改革教会宣教師にとって、聖書、讃美歌と同じくらい、使徒信条、主の祈り、十戒が生活の信仰として身に着いていたのだと思われます。その信仰がやがて生まれる日本人キリスト者に決定的な影響を及ぼすようになります。

これらのアメリカの宣教師のルーツを辿れば、ピューリタンの信仰があります。英国のピューリタン(清教徒)がメイフラワー号に乗って、新大陸アメリカへ渡り、伝道しました。そのピューリタンの信仰に立つアメリカの宣教師が日本にプロテスタントの信仰を伝えました。ピューリタンの信仰とは、一口で言えば、聖書の御言葉を生活の中で生きること、生活の中で神の栄光を現わして行くことです。神から「召し」「召命」(ベルーフ、コーリング)を受けた者として、「神の道具」となって、生活の中で、「職業」(ベルーフ、コーリング)において神の栄光を現わして行くことです。信仰と生活(倫理)が結びついたピューリタンの禁欲的な信仰、勤勉な生活が日本の社会に大きな影響を及ぼし、近代日本の底流となる精神となりました。

 

②東京大学の政治学の教授であり、十貫坂教会の信徒であった京極純一著『植村正久』(新教出版社、1966年、1984年)があります。日本の初代のプロテスタントキリスト者は、主として没落士族でした。その信仰を「洗礼を受けた武士道」と言われました。徳川将軍に忠誠を尽くして、全生活を献げ、生涯仕えて行く。仕えるべき徳川将軍を失った没落士族の若者が、キリストと出会い、洗礼を受け、キリストの忠誠を尽くして、全生涯を献げ、生涯仕えて行く。武士道の精神と倫理がキリストへの信仰と倫理へと繋がって行ったと言われます。

 京極純一はその著書『植村正久』において、植村正久の信仰を二つにまとめています。「志の信仰」と「社会の木鐸」です。キリストの志をわが志として、キリストに仕える。キリストに仕える信仰を社会の木鐸となって現わして行く。「木鐸」とは昔、中国で法令などを人民に触れて歩く時に鳴らした、舌を木で作った鈴のこと。そこから世人に警告を発し、教え導く人という意味になった。

 朝のテレビドラマに、広岡浅子を演じたドラマ「朝が来た」がありました。日本最初の実業家として、炭鉱経営、銀行経営、そして日本最初の女子大学である日本女子大学を創立しました。60歳を過ぎてから大阪教会で宮川経輝牧師より洗礼を受けます。69歳の時、婦人週報社から『一週一信』を出版しました。ペンネームは「九転十起生」(きゅうてんじっきせい)。広岡浅子が洗礼を受けたきっかけは、61歳の時、乳癌摘出手術を受けたことによる。麻酔から眼が覚めた時、「天はなお何かをせよと自分に命を貸したのであろう」と感じ、嬉しいというより非常に責任の重さを悟った。「その後私は、万事を全く天に任せたその刹那に感じた偉大な力を再び味わいたいと試みつつ、あるいはこれが人のいう神ではなかろうかと、絶えず憧憬しておりました」。そして教会の門を叩き、洗礼を受けた。このような文章を綴っています。ここにも生活の中でキリストに仕える志、社会の木鐸たる信仰が滲み出ています。

「その後の私は、休むにも活(はた)らくにも神の御命(みことば)を離れては何事もなすまじと決心いたしました。昔は一片の義侠心(ぎきょうしん)もしくは国家のためというだけの動機によって人の世話や世間のことに当たってきましたが、今後は凡て、個人のことも家庭のことも、また社会のこともことごとく、神の聖旨(みむね)ということを標準として致したい。即ち神意に従って尽くすべきはあくまで尽くし、争うべきは断じて争う決心をしました。而して神はこの老婢を持捨て給わず、尊き福音宣伝のために、これ日も足らぬほどに用い給うのであります。他の俗事ならば、疲労も致すべきでしょうが、不思議にも神の御用のために働く身には、いよいよ新しき生命を加えられ、恩寵はいよいよ豊かになりゆくのを覚ゆるのであります。真にかくてこそ生まれまし甲斐はありと感謝のほかありませんぬ。願わくは世の人々、暗きを捨てて光に充ちたるこの境地に入り、キリストと共に歩む喜びに一日も早く達せられんことを。既に神の恵みを受けた人々はこれを隣人に頒(わか)って、光輝ある社会を一日も早く臨(きた)らすことができるよう、共に力を致されんことを切に祈って止まぬのであります」(広岡浅子『人を恐れず天を仰いで』新教出版社、2015年)。

 

③明治の初期、礼拝の中にあった「十戒」が、やがて礼拝の中からなくなります。その理由は日本教会史において重要な主題となり得る事柄です。その理由はよく分かりません。推測する以外にはありません。「十戒」が礼拝の中からなくなることにより、「十戒」が日本人キリスト者の信仰と生活に根ざさなくなったと言えます。信仰と生活との乖離が生まれるようになりました。知識優先の信仰となり、生活に根ざした信仰にならなかった。そこに日本のプロテスタント教会の抱えている深刻な問題があります。「十戒」が何故、礼拝の中からなくなったのでしょうか。「十戒」の捉え方の誤りがあったのではないでしょうか。パウロがガラテヤ書5章で語る「自由を得させるキリストの愛の戒め」としてではなく、冷たい戒めとして捉えられたのではないでしょうか。「十戒」を「信仰問答」のどこに置くかで、その捉え方が異なります。「ハイデルベルク信仰問答」は三部から構成されています。「人間の悲惨」(罪)、「神の慰め」(救い)、「感謝の応答」(生活・倫理)です。ルター派は「罪」の項目に「十戒」を置きます。「十戒」を「罪の悔い改め」として位置づけます。私ども改革派は「感謝」の項目に「十戒」を置きます。キリストによって与えられた神の慰めに、感謝をもって応答する「生活」の「道しるべ」として「十戒」を位置づけます。

 今日、日本のプロテスタント教会が改めて「十戒」を学び直し、自分たちの信仰に位置付けることが不可欠です。鎌倉雪ノ下教会が加藤常昭牧師の下で、「十戒」を学び直し(加藤常昭『十戒講話』教文館、2006年)、1986年に礼拝の中で告白するようになりました。それが日本の他の教会にも影響を及ぼし、改めて「十戒」を学び直し、礼拝の中で告白するようになりました。金沢教会もその一つでしょう。しかし、礼拝の中で「十戒」を告白するようになればよいのではなく、「十戒」に込められた神の御心を知り、それを生活の中で生きることこそが大切です。

 

2.神の面前で生きるー十戒の心棒―

①石川地区は一昨年より「聖書セミナー」で三年の亘り「十戒」の学びを始めました。一昨年昨年の学びを覚えていますか。それが前提となって今回の学びがなされます。それをまた最初から語り直すことはいたしません。しかし、要点だけを確認したいと思います。「十戒」の「前文」がとても大切です。「十戒」を与えられた神がどのような神であられるのか。神の自己紹介が語られているからです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。奴隷の家から導き出し、出エジプトという救いの御業を行なわれた神が、主として、あなたの神として、荒れ野を旅する神の民を導く「いのちの戒め」として、この「十戒」を与えられたということです。神のいのちが注がれた「いのちの言葉」が「十戒」です。これを抜きにして40年の荒れ野の旅を送ることが出来ない言葉です。

 

②「十戒」を見る時に、3つの視点から見ることが大切です。この3つを心に留めて、「十戒」を見ましょう。

第1、聖書の文脈で「十戒」を見る。聖書学の視点。

第2、宗教改革の時代の文脈(『ハイデルベルク信仰問答』)から「十戒」を見る。教会史の視点。

第3、現代の文脈で「十戒」を見る。教義学の視点。

 勿論、3つの視点はバラバラではなく、重なり合ってもいます。

 

③「十戒」の中で特に大切な戒めは、第1戒、第4戒、第10戒です。第1戒は扇の要と言えます。「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」。文語訳では「汝、我面の前に我の外何物をも神とすべからず」。元の言葉には、「わが面の前に」という言葉があります。

 東京神学大学の旧約聖書神学教授である大住雄一先生が、『神のみ前に立って~十戒の心~』(教文館、2015年)を書かれました。FEBCラジオ放送で講義をされたものを、テープから起こし、書き直されました。「十戒」の分かりやすく、優れた解説書です。この本の題名にもありますように、「十戒」は私どもを神の御前に立たせる。そこに十戒の心があると語ります。これは「十戒」の優れた捉え方です。言い換えれば、「十戒」は神のみ前に立つ礼拝で唱えられる言葉だということです。それを重んじたのが、宗教改革者ジャン・カルヴァンです。カルヴァンは礼拝を祈りの形式と定め、礼拝の中で「十戒」を歌いました。そして一つ一つの戒めの後に、「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れみ給え)と歌いました。主の憐れみの中で「十戒」を歌い、神の面前で生きることを重んじました。礼拝だけでなく、日々の生活も、「神の面前」(コーラム・デオ)にあることを強調しました。改革派の信仰の心棒となる信仰となりました。

 昨年、私は改革長老教会協議会の議長となりました。日本基督教団の中にあって、自覚的に改革派の信仰、長老制度を重んじて教会形成をしようと志す運動体です。連合長老会よりも緩やかな教会、牧師、長老の集りです。今年で結成されてから30年経ちます。第1回の全国協議会が1985年4月29日、鎌倉雪ノ下教会の新会堂で行われました。109教会345名の牧師、長老、執事が出席しました。翌年、第2回全国協議会が富士見町教会で行われ、竹森満佐一先生が「信仰告白を規範とするわたしたちの教会」という題で主題講演をされました。その講演の最後で、「神の前に」を語りました。

「カルヴァンの『キリスト教綱要』をはじめて日本語に訳されたのは中山昌樹先生であります。中山先生がそれをお訳しになった頃は、わたしは日本神学校の学生でありました。先生はそれを翻訳して出版された時に、教室でいろいろと裏話というか漫談をされました。その時に言われたことで忘れられないのは、カルヴァンの信仰というのは、コーラム・デオ(Coram Deo)の信仰だ、と言われたことです。コーラム・デオというのは、『神の前に』というラテン語です。あの本を読むとふんだんに出てくるのです。中山先生はそれをとらえて、あまり人の言わないことですが、コーラム・デオの信仰がカルヴァンの信仰なのだ、と教えてくださいました。神の前にあるということは、皆が願うことなのです。われわれは、まことの信仰告白によって、告白することによって、神の前にある生活をすることができるのではないか、と思います」。

 

④竹森満佐一先生の言葉で言えば、「十戒」の第1戒は、私どもの教会の信仰告白ということになります。「汝、我面の前に我の外何物をも神とすべからず」。

 カール・バルトという神学者が1933年3月10日、12日に、コペンハーゲンとアールフスで、「神学的公理としての第1戒」という講演をしています。1933年はヒットラー率いるナチスが政権を掌握した年です。「十戒」の第1戒「神のみを神とせよ、神以外のものに跪くな」という神学的公理を掲げることにより、ナチスと闘いました。バルトはドイツ告白教会に属して、ナチスと闘いました。バルトが1934年に起草したドイツ告白教会の「バルメン宣言」があります。6条項からなる神学宣言です。その第1条項は、「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聴くべく、また生きているときも、死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である。教会が、この唯一の神の言葉以外に、またそれと並んで、別の出来事、さまざまな力、人物、諸真理をも神の啓示として承認し、宣教の源泉とすることができるし、そうしなければならないと教える過った教えを、われわれは却ける」。

今日の時代、日本においても世界においても、自国中心主義、歴史の振子が大きく右に傾く中で、また、様々な力が神のごとくに崇められる中で、教会に生きる私どもが「神のみを神とせよ、神以外のものに跪くな」という「十戒」の第1戒に真剣に生きることが求められています。

 昨年は敗戦後70年という大切な年でした。夏に総理大臣談話が発表され、日本の将来を方向づける安全保障関連法案が国会で可決されました。そこで問われていることは、敗戦後70年を迎えたわが国が、神の御前で真実に罪を悔い改めているかどうかです。

 無教会の伝道者でありました矢内原忠雄は太平洋戦争中、エレミヤ書を説き明かしながら、エレミヤと自らを重ね合わせて、神の悲哀を体現した者として日本に悔い改めを迫りました。敗戦の年の1945年12月23日のクリスマス礼拝において、「日本の傷を癒す者」という説教題で、やはりエレミヤ書を説き明かしながら、神の御前で真実に悔い改めることこそ、新しい出発なのだと語りました。

「フィヒテが新しいドイツ復興の道は教育にあると申しましたように、私どもも新しい日本建設のためにいかに教育が大切であるかを思わざるを得ないのです。教育は新しい人間を、新しい人格を創造することにあります。この度の敗戦は一言にして言えば、人間が造られていなかった。人格という観念が国民の心に植え付けられていなかった。我々に与えられたものは国家教育でありました。そして技術教育でありました。技術をもって国家の目的に奉仕するということが今日までの教育の主眼でありました。しかし、国家は真理に立つものであるという教育は怠ってきた。我々が一個の人格として神の前に正しく生きなければならないという、個人の人格の観念が教育せられていなかった。今日における日本人の道義心の貧困と正しき批判の貧困は、すべてこの二つの理由、国も人も神の前に義しくなければならないという精神が教えられてこなかったからであるのです」。

 矢内原は太平洋戦争の敗戦の原因は、教育の敗戦にあったと指摘します。神の前に国も人も、一個の人格として義しく生きなければならないという個人の人格の観念が教育せられていなかった。ここにも「コーラム・デオの信仰」があります。

 「神の面前で人格(神のかたち)を持った人間として生きる」ことを教えるのが、神の律法「十戒」です。しかも私どもは新しい神の民として、神の面前で神の民として共に立ち、生きるのです。

 

3.神の御前で共に生きるー第5戒―

①「十戒」は前半が「神と私どもとの関わりの戒め」、後半が「私どもと隣人との関わりの戒め」です。主イエスも律法学者から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われた時、「十戒」を二つに分類されました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37~40)。

さて、第5戒はどちらに入るのでしょうか。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」。普通に考えれば、「父母を敬う」戒めですから、後半の「私どもと隣人との関わりに戒め」と考えます。しかし、隣人の中で父母は特別な存在です。神から与えられた関係です。子どもが最初に出会い、経験する人間関係が、親子関係です。夫婦の関係や他の関係は、私どもが選ぶ関係です。そこに決定的な違いがあります。父母は神から与えられた特別な存在。そして父母を通して、神を教えられ、神を知ります。信仰を継承します。「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という第5戒の後半の御言葉も、信仰の継承を現わしています。土地を持たないイスラエルの民にとって、土地は神からの嗣業であり、その土地で信仰を継承して生きることこそ、大切な目的です。従って、神から与えられた特別な存在である父母を敬う第5戒を、前半の「神と私どもとの関わりの戒め」に入れる理解をする立場もあります。宗教改革者マルティン・ルター、ルター派がそうです。ルターは家庭での信仰教育の手引きとして『小教理問答書』を書きました。「お父さん、これなあに」と子どもが問い、「それはね、こういう意味だよ」と父が答える形式の問答書を書きました。父を信仰の指導者として重んじることを強調しました。ルター研究者徳善義和先生は「お父ちゃんの信仰問答」と呼びました。

 

4.「外的戒め」から「内的戒め」へー第6戒~第10戒―

①第6戒~第10戒までは、「~してはならない」という禁止命令で語られています。強い威圧感を感じます。「十戒」が冷たい戒めと感じられてしまう理由は、この強い禁止命令にあるからでしょう。しかし、この言葉は、「前文」と深く結び付きます。この「十戒」を与えられた神がどのような神であられるのか、神の自己紹介の言葉です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。このような神の憐れみを受けているあなたが、殺すはずがないではないか。「あなたは~するはずがないではないか」という神の強い期待を表す言葉が本来の意味なのです。

 

②第6戒~第10戒は、「殺してはならない」。「姦淫してはならない」。「盗んではならない」。「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」です。主イエスの「山上の説教」は、「十戒」の後半の戒めの解き明かしでもあります。その特徴は外的な意味ではなく、内的に捉えていることです。例えば、このように語られています。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21~22)。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27~28)。そして主イエスは「十戒」の後半の戒めをこの一言でまとめました。「黄金律」と呼ばれています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)。「~するな」という消極的な戒めではなく、「~してあげなさい」という積極的な戒めとして「十戒」を受け止められました。

 

5.第7戒「姦淫してはならない」―「神のかたち」としての人格を持つ人間として向き合うー

①「十戒」の後半は、「私どもと隣人との関わりの戒め」です。私どもが共に生きる隣人とどのように向き合って行くかが問われています。「十戒」には明確な特徴があります。第6戒で「あなたの父母を敬え」と語ります。「親子関係」です。「私どもと隣人との関わり」の最初に、「親子関係」を置きます。そして第7戒で「姦淫してはならない」、即ち、「夫婦関係」を語るのです。この順序が大切です。何故、「夫婦関係」から始めないで、「親子関係」から始めるのでしょう。「親子関係」は神から与えられた関係、「所与の関係」だからです。自分で選ぶことの出来ない関係だからです。全ての人間が親子関係から始まります。人と人との関わりの根源的な関係です。それに対して、「夫婦関係」は「選びの関係」です。数多の異性から一人の異性を選びます。それ故、「夫婦関係」は選ばない自由もあります。独身の道も選びの中に入っています。

 

②「十戒」の第7戒「姦淫してはならない」を、三つの視点から見てみましょう。第一は「聖書の文脈で見る」「聖書学の視点」です。

第7戒は創世記1章27節と深く関わります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。ここに聖書の根本的な人間理解があります。神の人間創造です。神は人間だけを「神のかたち」として創造されました。「神のかたち」とは、神と向き合う存在として造られたということです。ユダヤ教の神学者マルティン・ブーバーが『我と汝』(みすず書房)で、神と人間との関係は、「我」と「汝」と呼び合う「人格的な関係」であることを強調しました。「我」と「彼」「彼女」、「我」と「それ」とは異なる「人格的な関係」です。神は私どもの名を呼び、私どもが分かる言葉で語りかけて下さる。その神の語りかけに対し、私どもも神の名を呼び、言葉をもって応答する。それが礼拝であり、祈りです。「十戒」の第1戒で重んじた「神の面前で」(コーラム・デオ)です。私どもが神と向き合う時、私どもは「真実の人間」となるのです。「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:16)と語られる神のまなざしから見て、大切な人格を持った人間であることを知るのです。

更に神はご自分にかたどって創造され、男と女に創造されました。人間は創造主である神と向き合い、同時に、男として女としてお互いが向き合う存在として創造されました。主なる神は言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2:18)。人間は独りで生きることは出来ません。神と交わり、同時に、人と交わって生きます。「ふさわしい助け手」「パートナー」が必要です。主なる神は人(アダム)のあばら骨の一部を抜き取り、あばら骨から女を造られました。男と女が向き合った時、男は歓声を上げました。「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(創世記2:23)。女が男のあばら骨から造られたので、女は男よりも劣った存在であるということではありません。あばら骨は心臓、いのちを守る大切な骨です。その大切な骨から女を造られたということは、男と同等のかけがえのない人格的な存在として造られたことを意味します。男と女とが共に、神に造られた「神のかたち」として、「我」と「汝」と呼び合う人格的な存在として助け合い、造り主である神の面前で生きて行くのです。

 

③ところが、聖書を見ますと、男と女との関係の破れ、夫婦関係の破れが繰り返し語られます。北森嘉蔵先生は、聖書物語は将に「愛憎無限」であると語ります。今日、毎日のように起こる事件の多くが、男と女の問題、夫婦の関係の破綻です。

「愛憎無限」の最たるものが、イスラエルの王ダビデが部下ウリヤの妻バト・シェバを強引に自分のものとした事件です(サムエル記下11~12章)。聖書はダビデ王が姦淫の罪を犯したことを隠さず、明確に語ります。ダビデ王は預言者ナタンから叱責され、自ら犯した罪の大きさに初めて気づき、地に倒れ伏して涙をながしながら、自らの罪を悔いました。それが詩編51編のダビデ王の「悔い改めの詩編」です。神の面前で自らの罪を悔い改めています。バト・シェバに謝るだけではなく、男と女という秩序をこの世界に造られた神に、自らの罪を悔い改めています。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(51:1~6)。



 破壊された「神のかたち」を回復させるために、神は愛する御子イエス・キリストを送られました。主イエス・キリストこそ「神のかたち」として、失われた神のかたちを回復するため、まことの人として地上を歩まれ、十字架に立たれ、甦られました。パウロは語ります。洗礼を受け、「神にかたどって造られた新しい人を身につけなさい」(ェフェソ4:24)。

 

 
「十戒」の第7戒「姦淫してはならない」は、夫婦関係だけが問われているのではなく、神に造られた男、女として、健やかに神と向き合うい、健やかに男と女とが向き合うことを勧めている戒めです。今日の『日本国憲法』が語る「基本的人権の尊重」、「人権思想」は、聖書から生み出されたものです。

 

6.「姦淫してはならない」-内面の罪を問うー

①第二の視点は、「宗教改革の時代の文脈から見る」「教会史の視点」です。何故、「宗教改革の時代の文脈から見る」かと言えば、私どもプロテスタント教会の信仰の原点が、宗教改革にあるからです。その代表的なものとして、カルヴァン著『ジュネーヴ教会信仰問答』(1541年)、『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)を見ましょう。

 『ジュネーヴ教会信仰問答』(外山八郎訳、新教出版社)

問200「第7の戒めをいってごらんなさい」。

答「あなたは決して姦淫してはならない」。

問201「要約すれば、どんなことですか」。

答「それは、すべての姦淫が、神から呪われるということです。また、われわれが自らの上に神の怒りを招くことを望まないならば、これをつつしまなければならないということであります」。

問202「その他のことを、神は求めておられませんか」。

答「われられは常に、律法制定者の性質に心をとめなければなりません。彼は外的行為のみにとどまらず、心の情をもお求めになります」。

問203「では、どのようなことを含んでいますか」。

答「われわれの体も魂も聖霊の宮でありますから、われわれはこれを全く操正しく保つべきこと。そしてわれわれは、行為についてばかりではなく、願いも言葉もふるまいについても、潔癖であり、かくてわれわれには、不潔に汚されているところはどこにもないことが求められております」。

 

 『ハイデルベルク信仰問答』(吉田隆訳、新教出版社)

問108「第7戒は、何を求めていますか」。

答「すべてみだらなことは神に呪われるということ。

  それゆえに、わたしたちはそれを心から憎み、

    神聖な結婚生活においてもそれ以外の場合においても、

    純潔で慎み深く生きるべきである、ということです」。

問109「神はこの戒めで、姦淫とそのような汚らわしいこと以外は

    禁じておられないのですか」。

答「わたしたちの体と魂とは共に聖霊の宮です。

  ですから、この方はわたしたちがそれら二つを、

    清く聖なるものとして保つことを望んでおられます。

  それゆえ、あらゆるみだらな行い、態度、言葉、思い、欲望、

    またおよそ人をそれらに誘うおそれのある事柄を

    禁じておられるのです」。

 

『ジュネーヴ教会信仰問答』と『ハイデルベルク信仰問答』とは、同じ理解をしていることが分かります。「姦淫してはならない」を外的な戒めだけでなく、内的戒めとしても受け止めています。心の中にある欲望も問うています。その意味で、第10戒の「隣人の妻を欲してはならない」「むさぼりの罪と関係しています。主イエスが山上の説教で問われたことです。「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものはだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)。

 しかし、更に重要なことは、「姦淫してはならない」という戒めを、積極的な戒めとして理解していることです。二つの信仰問答が共に、「わたしたちの体も魂も聖霊の宮です」(コリント一6:19)を挙げています。十字架のキリストにより、罪なき神の御子のいのちによって、代価を払って買い取られた私どもが、体も魂も聖霊の宮として、男として女として自分の存在をもって神の栄光を現わしなさい。そのような戒めとして受け止めています。

 

7.「姦淫してはならない」-現代の文脈で問うー

①「姦淫してはならない」。この戒めを「現代の文脈」で問う。それが第三の視点です。「教義学的視点」です。現代社会において、性の問題は複雑化し、一つの視点で捉えることが難しくなっています。性的少数者を教会はどのように受け止めるべきか。ジェンダーの視点から聖書を読み直す動きがあります。

 かつてカール・バルトが『教会教義学』の「創造綸」の倫理の項目「交わりにおける自由」で、「男と女」「結婚の問題」を論じました。抄訳『キリスト教倫理Ⅱ』(新教出版社)は青年会のテキストとしてよく読まれました。そこで語られていることは、今日から見れば古いという批判もなされています。私は今日であっても耳を傾けるべき教義学的視点の「男と女」「結婚の問題」が語られていると思います。そこでバルトは一つの命題を掲げています。

 「創造者なる神は、人間を御自身へと召したもうとき、またこの人間をその隣人に向かわせたもう。神の戒めは、特別にかく言うー人間は、男と女との出会いにおいて、親と子との関係において、近くの者から遠くの者への道の上で、他者を自己自身とともに、また他者とともに自己自身を、肯定し・尊敬し・喜び受けるべきである、と」。

大切なことは、私ども人間は神の御前に立つ時にこそ、人格的な存在であることを知り、その人格的な存在が同じ人格的な存在として異性、同性と向き合い、自分も相手も肯定し、尊敬し、喜ぶということです。

 

8.終わりに

①「十戒」の前で、私どもは自らの罪の深さを知り、この戒めを完全に守れない自らの弱さをしる。それだからこそ、熱心にキリストにある罪の赦しと義とを求め、神の聖霊の恵みをひたすら請い願うようになるのです。終わりの日の完成、神のかたちへと新しくされる(キリストに似た者とされる)を目指し、神の民として旅を続けて行くのです。

 来年2017年は宗教改革500年です。様々な出版、イベントが欧米でも、日本の教会でも計画されています。ローマ・カトリック教会の一修道士であったマルティン・ルターの宗教改革は、神の御前で真剣に悔い改め、誠実に生きることから始まりました。1517年10月31日、ヴッテンベルクの城の教会の扉に「95箇条の提題」を張り付けました。その第1箇条は、このような言葉でした。この言葉こそ「十戒」の心であり、私どもの教会の原点です。最後にこの言葉に耳を傾けましょう。

「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・』(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」。

「ハイデルベルク信仰問答」問86の言葉で言えば、「全生活にわたる感謝」です。

 

9.「十戒」の参考文献

①信仰問答

 ルター『小教理問答書』『大教理問答書』(聖文舎)

カルヴァン『ジュネーヴ教会信仰問答』(新教出版社)

『ハイデルベルク信仰問答』(新教出版社)

『ウェストミンスター小教理問答』『ウェストミンスター大教理問答』(教文館)

加藤常昭『雪ノ下カテキズム』(教文館)

アメリカ合衆国長老教会『わたしたちは神さまのもの』

永井春子『青少年のためのキリスト教教理』(日本キリスト教会教育委員会)

②教義学的視点

 加藤常昭『信仰への道―使徒信条・十戒・主の祈り』(教文館)

 加藤常昭『説教全集28 十戒・ルターの小教理問答』(教文館)

 バルト『キリスト教倫理Ⅱ』(新教出版社)

 近藤勝彦『十戒、その今日的意味を学ぶ』(日本伝道出版株式会社)

 村上伸『グループスタディ12章 十戒に学ぶ』(日本キリスト教団出版局)

 永井春子『十戒と祈りの断想』(ルガール社)

 大木英夫『信仰と倫理―十戒の現代的意味―』(教文館)

 ロッホマン『自由の道しるべー十戒による現代キリスト教倫理―』

 リュティ『十戒―教会のための講解説教』(新教出版社)

 ハワワース、ウィルモン『神の真理―キリスト教的生における十戒―』(新教出版社)

 武祐一郎『高校生と学ぶ十戒』(新教出版社)

 三原誠『伝道パンフレット11 十戒』(全国連合長老会)

③聖書学的視点

 大住雄一『十戒』(鳥居坂教会文庫10)

 大住雄一『神のみ前に立ってー十戒の心―』(教文館)

 シュミット『十戒―旧約倫理の枠組みの中で』(教文館)

 クリュゼマン『自由の擁護―社会史の視点から見た十戒の主題』(新教出版社)

 関田寛雄『十戒・主の祈り』(日本キリスト教団出版局)

 シュタム、アンドリュウ『十戒』(新教出版社)

 シュライナー『十戒とイスラエルの民』(日本キリスト教団出版局)

 左近淑『神の民の信仰(旧約篇)』(教文館)