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中部教区総会 開会礼拝説教  

2014年 5月 20日(火)  説教「荒野に道を備えよ」井ノ川勝牧師
聖書:イザヤ書40章:1〜11節 

1.@教会に生きる私どもは歴史の直中を歩んでいます。私どもが生きる歴史には、何度か重要な分かれ目、岐路があります。その後の歴史の歩みを決定的に方向づけてしまう分岐点です。そして今が将に、歴史の分岐点である。その危機意識は、今、教区総会という教会会議に出席している私ども共通の思いではないでしょうか。

 東日本大震災が起きてから3年目を迎えました。今なお多くの方々が厳しい避難生活を強いられています。被災された教会はまだ再建途上にあります。また、戦後の日本再建の歩みの土台にあった日本国憲法の解釈変更を巡り、大きく揺らいでいます。日本を真実に健やかにするために、私どもの先達が祈り、心血を注ぎ、キリストの教会を建て、伝道してきました。しかし、教会もまた、大きな壁に直面しています。私ども教会が語る言葉が、この国に生きる人々に届かない。戦後、教会を支えて来られた方が一人また一人と主の御許に召され、後に続く者がなかなか与えられない。

 歴史の重要な分岐点に立ちながら、先を見通すことができない。見えるのはただ荒れ野、私どもが歩むべき道が見えない。世界の国々も、日本の国も、また教会も、そのような現実の直中に立たされています。

 

2.@「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う。何と呼びかけたらよいのか、と」。主なる神からこのように呼びかけられた無名の預言者第2イザヤ、また第2イザヤが所属する神の民イスラエルも、荒れ野の直中にいました。何十年も続く、終わりの見えない異教の地バビロンでの捕囚生活。滅亡した祖国エルサレムに帰る道が見えない。そして何よりも自分たちの歩むべき将来の道が閉ざされて見ない。見えるのはただ道なき荒れ野です。

 そのような荒れ野の直中に立ちすくむ無名の預言者第2イザヤに、主なる神は語りかけます。「呼びかけよ」。第2イザヤは応える。「何と呼びかけたらよいのか」。改革者マルティン・ルターもまた、歴史の分岐点に立ち、教会の改革のために一石を投じた後、真っ先に行ったことは、民衆のためにドイツ語で聖書を翻訳することでした。ルターはこのように訳しました。「説教しなさい」。「何と説教したらよいのか」。

 今、歴史の分岐点に立つ私どもの教会に向かっても、主なる神は語りかけます。「説教しなさい。御言葉を語りなさい」。しかし、私どもは応える。「何と説教したらよいのか。私どもには語るべき言葉を持ち合わせていないのです」。

 

A説教する、御言葉を語る。それは言い換えれば、主なる神が呼びかけるように、荒れ野に道を備えることです。荒れ地に大路を真っ直ぐに敷くことです。しかし、私どもが語る説教の言葉に、そのような力などあるのでしょうか。預言者も、説教者も、肉を纏った人間です。草のような存在であり、野の花のような存在です。主の風が吹き付け、主なる神の息が注がれれば、ひとたまりもなく枯れ果て、しぼんでしまうような存在です。全くの無力であり、儚い存在です。「しかし」と主なる神は語られる。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。主の息がハッと注がれれば、説教者も草のように枯れ、花のようにしぼんで倒れる。しかし、主が説教者に託し、説教者の口を通して語られる神の言葉はとこしえに立ち続ける。神の言葉は立つ。勿論、神の言葉は読まれる、神の言葉は聞かれる、神の言葉は語られる。しかし、何にもまして、神の言葉は立つものなのです。

 「しかし、神の言葉は立つ」。ルターはこの訳にすべてを賭けました。ルターは教会を改革するため一石を投じました。そのためすべての人々を敵に回しました。ルターは孤軍奮闘し、「我ここに立つ、主よ、我を憐れみ給え」と語りました。このルターの言葉は、イザヤ書のこの御言葉から生まれたと言えます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。草のように枯れ果てる説教者も、花のように枯れ果てる信徒も、しかし、とこしえに立ち続ける神の言葉にのみ立つことができる。

 しかし、神の言葉は立つ。荒れ野の直中に立つ。そこに道が拓かれる。

 

3.@私は有志の伝道者とこの3年、名古屋で、ナチに抵抗したドイツ告白教会の説教、バルメン宣言の学びを共にしてきました。先を見通すことのできない荒れ野の現実の中で、ナチの支配化の中で、ある説教者により、このような説教が語られました。

「毒ガスや爆弾が今日の時代にあって、力を発揮しています。しかし、神の言葉はそれに負けない力を持つ現実です。私どもは、今、自分自身のことで不安を抱いている。しかも、まことに多くの人びとを苦しめている、あのナチによる外的な不安に留まりません。むしろ、それは内的な不安です。私どもは堅く立ち続けていくことができるのであろうか。私どもの信仰は保たれるのであろうか。私どもは誰ひとりとして自分自身のために保証することはできません。自分自身について不安を抱くきっかけになることはたくさんあります。しかし、すべての者が揺らぎつつある時の中にあって、ただひとつ揺るがないものがある。『あなたがたが信じなければ、あなたがたは立つことはできない』。それこそ私どもに告げられた神の言葉なのです」。

 

A「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。主なる神は草に過ぎない私どもに、花に過ぎない私どもに、とこしえに揺るがず立ち続ける神の言葉を託してくださいました。だから主なる神は、私どもに告げるのです。「良い知らせをシオンに伝える者よ、高い山に登れ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ、力を振るって声をあげよ。声をあげて、恐れるな」。

 私どもの小さなキリスト教会が、力を振るい、声をあげて、恐れることなく、この日本に向かって告げる神の言葉とは何か。

 

B昨年11月、中部教区教師研修会が行われました。「3・11以後の教会が語るべき言葉を求めて」。それが研修会の主題でした。講師としてお呼びしたのは、聖学院大学の左近豊教師でした。旧約聖書の哀歌の講演をしてくださいました。その講演の核心部分を私なりの言葉で言い換えればこうなります。揺れ動き、崩壊して行く歴史の中で、歴史を支え続けたものは、強大な力を持つ帝国でも権力者でもない。主なる神により何度も何度もその信仰を審かれ、打ち砕かれながらも、歴史の片隅に残った少数の残りの者、神の民。私ども人間の貪欲により導かれる歴史を真実に嘆き、痛み、悲痛な叫びを挙げた神の民。歴史の片隅に残された少数の残りの者、神の民が崩壊して行く歴史を支えた。しかし、もっと正確に言えば、神の民が歴史の直中で挙げた嘆き、痛み、悲痛な叫びこそ、歴史に生きる私どもへの主なる神の嘆き、痛み、悲痛な叫びであった。それこそが揺れ動き、崩壊して行く歴史を支え続けた。

そのような主なる神が私どもに託された神の言葉とは何か。荒れ野に道を備える神の言葉とは何か。主なる神はただ一言語られる。「慰めよ、わたしの民を慰めよ。心に語りかけよ」。この慰めこそ、力を振るい、声をあげ、恐れることなく告げよ、と主なる神は語られるのです。

 

4.@「慰めよ」。この言葉には、主なる神のこのような思いが込められています。歴史の中で呼吸困難に陥り、息苦しくなり、窒息しそうになっているわが民に、いのちの息を注ぎ、健やかな生ける呼吸を回復させる。この「慰め」を語りなさい。

私どもが語る「慰め」そのものが実は来られる。歴史の終わりから来られる。荒れ野に道を備えることこそ、私どもの使命。しかし、歴史の終わりから慰めの道を備える慰めそのものが来られる。だから見よ、見よ、見よ、と三度も繰り返し語る。闇が支配しているかに見えるこの歴史の中に、信仰のまなざしをもって見よう。あなたたちの神が来られることを。その神こそ、散らばった小羊を集め、懐に抱き、群れを養い、母羊の懐へと導く羊飼い。主イエス・キリスト。歴史の終わりから慰めの道を備えてくださるこの慰め主を、あなたがたは力を振るい、声を上げ、恐れることなく告げよ。

 

A先ほど紹介しましたナチの支配下にあって、ある説教者はこう語りました。「神が沈黙しておられるのではないかと思ってしまう人があるかもしれません。しかし、誰でもそう思ってしまうことを真実だと思い込んではならないのです。『わたしたちの神は来られる。黙してはおられない』。神のメッセージがこの世界を捨ててしまったということはないのです。むしろ、まさにこの捨てられた世界の中に神が入って来られたのであります。すべての癒し手が挫折してしまっているこの世界の中に来ておられるのです。今、明らかになっていること、それはすべての癒し手が挫折しているということです。その世界のなかに神が来てくださっています。神のみ言葉が現実のものとなっているところで、神ご自身が臨在しておられるし、そしてまた、神の助けもそこで起こっているのです」。

 

5.@今日から明日まで行われる第64回中部教区総会において、主なる神が私どもに託してくださったこの使命を新たにする時でありたいと、心から願います。