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〒920-0999 石川県金沢市柿木畠5番2号

部会・委員会

部会

婦人会 金沢教会婦人会は会員一人一人が信仰のきずなで結ばれています。年に4・5回例会を開いて食事を共にしたり、楽しく学びの時を持っています。神様に喜ばれる奉仕の業にも励んでいます。そこには神様に祝福された豊かな交わりがあります。
 壮年会 青年会を卒業した方、壮年である方で構成されています。会員は現在25名です。毎月第4聖日に読書会を行っています。(神学の楽しみ)。老若男女いろいろおります。
青年会 学生から社会人まで、若い人が中心になって一緒に聖書を読んだり日頃考えていることを話し合ったりしています。春は花見に行ったりクリスマスにはキャロルの練習をしたり楽しくみんなで集まっています。
 
石川地区青年会クリスマス礼拝・祝会
2014年12月7日
16:30〜
場所:金沢教会

祝会:会費あり
ケーキが用意されています
多くの人が参加してください、お待ちしております。
イエス様の降誕を祝い、楽しい交わりのひと時を持ちましょう。






 青年会例会修養会2014
2014年7月19日(土)・20(日)
場所:金沢教会 
講師:井ノ川勝牧師

2014.7.19. 「沖へ漕ぎ出し、網を降ろしてみよう〜キリストの心を心とせよ〜」 ルカ5:1〜11

         井ノ川勝牧師                

1.@今週、主の日の礼拝で、「獲得する人生、捕えられた人生」という題で説教をしました。説き明しました御言葉は、フィリピの信徒への手紙3章12〜16節です。皆さんはどのようにこの説教を聴かれたでしょうか。礼拝後の青年学生会で様々な感想、意見が述べられたはずです。残念ながら、私はその会に出席することはできませんでした。もう一度、皆さん一人一人の感想をお聞きしたい思いです。明らかに、私は本日の青年学生会修養会を意識して、御言葉を語りました。修養会のオリエンテーションとして、御言葉を語りました。従って、もう一度、主日礼拝での説教を思い起こしていただきたいのです。

 

A私どもの人生の真価は、何をこの手で掴み取ったか、獲得したかで決まるのではない。誰によって私が掴み取られたか、捕えられたかで決まる。私どものために十字架でいのちを献げられ、甦られた主イエス・キリストによって捕えられる。ここで回心が起こる。生きる向きが変えられる。キリストの内に真実の私を発見する。キリストに捕えられることにより、真実の意味で、獲得する人生が始まる。自分の栄達を掴み取るのではなく、神の栄光を掴み取る人生が始まる。言い換えれば、キリストの志を私の志として生きること。キリストのために、わが人生を献げて生きる。キリストへの献身に生きることである。それは悲壮感漂う人生ではなく、主にある喜びの人生である。

伝道者パウロの実存に溢れたフィリピの信徒への手紙の中心メッセージがここにあると、私は確信している。

 

2.@私どもが生きている歴史には、幾つかの分れ目、岐路があります。その後の歴史を決定的に方向付ける分岐点です。どこを歴史の分岐点と捕えるかは、歴史家によって解釈が分かれます。日本の近代史において、二つの分岐点を挙げることができます。一つは徳川幕府の崩壊、明治維新です。もう一つは第二次世界大戦での敗戦です。日本のその後の歴史を大きく左右する分れ目にあって、重大な役割を果たしたのがアメリカの宣教師によるキリスト伝道でした。そして歴史の転換点にあって、歴史の役割を担ったのは、青年でありました。

 日本の近代史において、第一の分岐点は徳川幕府の崩壊、明治維新でした。徳川将軍に仕えた多くの士族が没落しました。生涯を賭けて仕える徳川将軍を失った没落士族は怒濤に迷いました。特に青年たちです。アメリカの宣教師が語る聖書の福音、キリストに真っ先に心を捕えられたのは、没落士族の青年たちでした。自分の命を賭けて仕えるべき新たな主人を与えられました。そのお方こそ、主イエス・キリストです。しばしば、キリストに捕えられた没落士族の青年たちを、「洗礼を受けた武士道」と呼んでいます。武士道とは、自分の命を賭けてどこまでも主人に忠誠を尽くし、お仕えしていく。その武士道が下地となり、新たに仕えるべき主人イエス・キリストが与えられる。洗礼を受けた武士道。

 

A洗礼を受けた武士道に生きた青年たちにとって、洗礼を受けることは二つの大きな意味がありました。一つは、キリストに仕え、教会に生きること。もう一つは、洗礼を受け、キリストに仕えることは、日本のために自らを献げることでもありました。日本を真実に神に喜ばれる国家とするために、自らの命をキリストに献げて生きたのです。キリストに仕えて生きることは、教会に生きることと日本のために生きることと一つであった。

 札幌農学校の教師であったクラークの有名な言葉が今日まで言い伝えられている。”Boys,be ambitious!”「少年よ、大志を抱け」。真実に語られた言葉は、「少年よ、キリストにあって大志を抱け」であったと言われている。キリストに捕えられた青年たちが、志をもって教会のために生き、日本のために生きた。フィリピの信徒への手紙2章5節の文語訳はこういう訳であった。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。言い換えれば、「キリスト・イエスの志を志とせよ」。「志」こそ、キリストに捕えられ、洗礼を受けた青年たちの心の真ん中にあったものであった。キリストから与えられた志を教会のため、日本のために献げて生きたのである。

不敬罪を問われ、第一高等学校から追放された内村鑑三は自らの生き方において、「二つのJ」を大切にした。「イエス・キリストのために」「日本のために」。また、アメリカ留学中、愛用の聖書に自分の墓碑銘として記入していた言葉がある。”I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.”「我は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、すべては神のために」。(鈴木範久著『内村鑑三の人と思想』岩波書店、『内村鑑三日録1〜12』教文館、富岡幸一郎著『内村鑑三』五月書房)。

富士見町教会の初代の牧師、東京神学社の初代の校長であった植村正久の中心にあったのも「志」。「伝道者」として生きることと、「社会の木鐸」として生きることは、一つであった。(京極純一著『植村正久〜その人と思想〜』新教出版社)。「木鐸」とは、『岩波国語辞典』によれば、世人に警告を発し、教え導く人。昔中国で、法令などを人民に触れて歩く時に鳴らした、舌を木で作った鈴のこと。富士見町教会は今でも、「求道者」を「志道者」と呼んでいる。

 日本のプロテスタント伝道の初期において、キリストに捕えられた青年たちが、教会のみならず、政治、教育、医療、社会福祉等、様々な分野で日本の近代化の礎を築く役割を担ったのである。

 

B日本近代史のもう一つの分岐点が、第二次世界大戦での敗戦であった。天皇の赤子として、天皇のため、お国のために、命を献げて生きる軍国主義教育を叩き込まれた青年たちが敗戦を迎えた。この時代もまた、自分たちが命を献げて生きる主人を失ったのです。そのような生きる目標を失った青年の心を捕えたのも、アメリカの宣教師が説く聖書の福音、キリストでありました。キリストに捕えられた青年は、自分のいのちを敗戦に直面した日本の新しい建設のために献げました。キリストにある理想に自らを献げました。伝道者になった者、政治家になった者、教育者になった者、医者になった者、社会福祉家になった者、実業家になった者・・。ここでも教会に生きることと、日本のために生きることが、一つのキリストの志で結ばれていました。

そのようなキリストの志に生きた先達により、今日の教会、今日の日本があるのです。

 

3.@しかし、今日、教会においても、日本においても、大きな歴史の岐路、危機に立たされていると、私は考えています。日本の教会はいつの時代も、少数者です。それは明治時代でも、敗戦後も変わりはありません。しかし、今日の危機は、教会も、教会に生きるキリスト者も、信仰と志が小さくなってしまったところにあります。明治に生きたキリスト者、敗戦後に生きたキリスト者は今日よりも、もっと少数者でありましたが、しかし、その信仰と志までもが小さくはなりませんでした。むしろ、キリストから与えられた大志を抱いて生きたのです。教会に生きることは、日本のために生きることでした。しかし今日、私どもキリスト者は教会の中で小さく閉じこもっています。所詮、我々は少数者、我々が気勢を上げても、社会は変わらないという諦めに捕えられています。

 教会の危機は同時に、日本の危機でもあります。政治、教育、医療、社会福祉、様々な分野で少数者であっても、「地の塩、世の光」として生きた良心的なキリスト者がいたのです。ところが今、それを受け継ぐキリスト者がいないのです。教会が日本社会の各分野に、良心的なキリスト者を輩出していないことによります。それは日本の危機です。

 

A私どもは今、伝道者パウロが異教社会にあるフィリピの町に生きる教会の人々に語りかけたこの言葉を、新鮮な思いで聴きたいのです。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。ここに集う青年学生の諸君が、キリストの心を心とし、教会に生き、同時に、神に喜ばれる健康な日本を築くために、各分野でキリスト者として生きてほしいのです。それは何も大それた生き方ではありません。神から与えられた自分の賜物を、自分に与えられた場所で献げて生きてほしいのです。ある者は家庭において、ある者は学校において、ある者は病院において、ある者は会社において、それぞれがキリストの志に生きてほしいのです。「キリストにある地の塩、世の光」として生きてほしいと願っています。

 

4.@「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。「キリストの心」とは何でしょうか。「キリストの心」を尋ね求める時、私どもは何よりも聖書を通して語りかけられるキリストの声、心に耳を傾けます。本日の青年学生修養会で耳を傾けたい主イエス・キリストの声、心は、ルカによる福音書5章1〜11節の御言葉です。特に主イエス・キリストのこの御言葉です。「沖に漕ぎ出し、網を降ろしてみなさい」。主イエス・キリストのこの御言葉が、現代日本に生きる青年学生の私ども一人一人に語りかけられています。

 第二次世界大戦で敗戦を迎えてから間もなく、東京都の信仰に生きる大学・高校の学生・生徒たちが集まって、基督者学生会を結成した。その最初の礼拝で説教をしたのが、国立で開拓伝道を始めたばかりの、日本神学校の校長の村田四郎牧師であった。50歳代の村田四郎牧師が「恩寵の深処へ」と題して、将に火を噴くような説教をした。その時、説き明された御言葉が、ルカによる福音書5章1〜11節であった。そこに集った敗戦間近に生きる大学生、高校生に、日本の新しい再建に生きるキリスト者としての志を与えたのである。その説教でこう語っている。「われわれはあまりにも貧弱な信仰生活をしているのではないか」と問うた後、「イエスの御言に従ってもっと沖へ出て、恵の満ち満つる沖に乗り出して行って網を打たなければならないのではないでしょうか」と訴えている。繰り返し、ただひたすらに主イエスの御言葉に従い、恩寵の深みへと赴こうと訴えている。そのメッセージを、今日私どもが聴くのである。

 

Aシモンをはじめ、ガリラヤ湖の漁師は失意の中にいました。一晩中漁をしましたが、一匹も収穫がなかったからです。失意の中で朝を迎えました。漁師にとって何ら収穫が得られない。これは屈辱的なことです。漁師としての能力、技術、経験、知識すべてにおいて落胆していました。ところが、失意の中にあるシモンら漁師に向かって、主イエスは舟に乗り込まれ、語られるのです。「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしてみなさい」。

 今日、私どももまた失意の中にいないでしょうか。落胆していないでしょうか。教会に青年学生を導きたい。でもなかなか教会に足を向けてくれない。キリスト者として社会の中で生きる時に、信仰を貫けない。信仰を曲げないと生きることができない。私どももいろいろな壁にぶち当たり、もう駄目だと諦めていないでしょうか。何をしても無駄、駄目。失意と諦めの中にいないでしょうか。しかし、そのような私どもに向かって、主イエスは語りかけるのです。「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしてみなさい」。

 シモンは漁師を代表して答えます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。私どもは一晩中、努力に努力を重ね、漁をしました。それでも何も採れなかったのです。シモンは更にこの言葉を言おうと思ったでしょう。「今更、網を降ろしても無駄ですよ」。でも、シモンは主イエスの言葉に賭けてみようと思いました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

 主イエスの御言葉に賭けてみる。主イエスの御言葉に私の存在すべてを賭けてみる。失意の中で、落胆の中で、しかし、主イエスの言葉にいのちを賭ける。改めて自らを振り返った時、私どもは本当に主イエスの言葉を信じ、信頼し、従おうとしているでしょうか。今、日本伝道が振るわない。私どもに欠けているのは、この大切な一事ではないでしょうか。「しかし、お言葉ですから、網を降ろし、漁をしてみましょう」。

 シモンは主イエスのお言葉どおりに、網を降ろしました。一匹も収穫が得られなかった湖に網を降ろしました。するとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになり、舟は沈みそうになる程、豊かな収穫が得られた。人間の目から見れば、一匹の魚すら収穫の得られない失意の湖です。そんな湖に網を降ろしても徒労に終わるだけです。無駄な行為です。他の漁場に行った方が、収穫の確率は高い。でも、愚かとも見えることを敢えて行う。無駄だと思えることを敢えて行う。主イエスがこう言われるからです。「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしてみなさい」。村田四郎牧師の説教の言葉で言えば、こうなります。人間の目から見れば失意の湖深くに、実は主の恩寵が隠されている。湖の深みへ網を降ろそう。湖の底にある恩寵に向かって網を降ろそう。

 一晩中、漁をしても一匹すら収穫が得られなかった失意の現実の直中で、網が破れそうになる程の豊かな収穫が与えられる。その時、シモンは喜びに満たされるどころか、主イエスの足下にひれ伏して、こう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。何故、シモンは主イエスの足下にひれ伏し、罪を告白したのでしょう。主イエスの言葉を疑ったからです。「沖に漕ぎ出し、網を降ろし、漁をしなさい」と主イエスから言われた時、心の中でつぶやいたのです。私はガリラヤ湖の漁師、この湖は私の家の庭のような場所。いつどこで、どのような気象条件で魚が採れるかどうか、漁の専門家として知り尽くしている。素人のあなたに指図される覚えはない。屈辱だ。シモンは主イエスの言葉を疑い、信頼できなかった。しかし、主イエスのお言葉に賭け、主イエスのお言葉どおりにしたら、人知を遙かに超える収穫が与えられた。主イエスのみ言葉がこんなにも力があり、主イエスの言葉の中に神の御業を見た。だからシモンは告白したのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。シモンが神と触れる、出会う。だから、シモンの呼びかけが、「先生」から「主」に変わっている。シモンは「シモン・ペトロ」と主イエスから付けられた名前となっている。ペトロの罪の告白、悔い改め、向きが変えられた出来事です。

 しかし、この出来事はここで終わっていない。主イエスはシモンに語られた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。シモン・ペトロは人間を採る伝道者へ召される。ペテロの召命の出来事です。

 

B「召命」という言葉は、”calling”、「呼ぶ」という言葉から生まれました。今日、教会以外では用いられない言葉となりました。元々は「天職」という「職業」を表わす言葉でした。伝道者だけが天職ではありません。政治家も、教育者も、医者も、社会福祉家も、実業家も、母親も、「天職」、神から呼ばれた職業として受け止め、自らの職業を通して神の栄光を現わして行きました。明治の青年、敗戦後の青年の根底にあったのが、主から呼び出された召命です。今日、私どもに欠けているのは、この一点ではないでしょうか。日本の社会で死語となっているこの一点です。それを教会に生きる私どもキリスト者である青年・学生が回復して生きることです。職業の中で主イエスのこの呼びかけを聴き、それに応えて生きる。そのような青年・学生が一人でも与えられたら、日本は変わります。

 

5.@来年2015年は日本の敗戦から70年目に当たります。敗戦後70年、日本は本当に神に喜ばれる歩みをしてきたのでしょうか。今日の日本をご覧になられたら、神は悲しまれるのではないでしょうか。

 この3年間、私は名古屋において有志の牧師と共に、第二次世界大戦下、ナチに抵抗したドイツ告白教会、様々な教派の牧師、長老、信徒が集まり、ナチに抵抗しました。ドイツ告白教会の説教による戦いを学んできました。ドイツ告白教会が自らの信仰を6条項から成る「バルメン宣言」で告白しました。その第1条項はこのような告白です。「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聴くべく、また生きているときにも、死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である」。生きるときも、死ぬときも、信頼し、従うべき、唯一の神の言葉イエス・キリストへの召命を言い表しました。ルカ福音書5章で語られているイエス・キリストを言い表しています。

 ナチに抵抗したドイツ告白教会の牧師が、この「バルメン宣言」第1条項に立つ説教を語っています。

「毒ガスや爆弾が今日の時代にあって、力を発揮しています。しかし、神の言葉はそれに負けない力を持つ現実です。私どもは、今、自分自身のことで不安を抱いている。しかも、まことに多くの人びとを苦しめている、あのナチによる外的な不安に留まりません。むしろ、それは内的な不安です。私どもは堅く立ち続けていくことができるのであろうか。私どもの信仰は保たれるのであろうか。私どもは誰ひとりとして自分自身のために保証することはできません。自分自身について不安を抱くきっかけになることはたくさんあります。しかし、すべての者が揺らぎつつある時の中にあって、ただひとつ揺るがないものがある。『あなたがたが信じなければ、あなたがたは立つことはできない』。それこそ私どもに告げられた神の言葉なのです」。

そして更にこのように語ります。「神が沈黙しておられるのではないかと思ってしまう人があるかもしれません。しかし、誰でもそう思ってしまうことを真実だと思い込んではならないのです。『わたしたちの神は来られる。黙しておられない』。神のメッセージがこの世界を捨ててしまったということはないのです。むしろ、まさにこの捨てられた世界の中に神が入って来られたのであります。すべての癒し手が挫折してしまっているこの世界の中に来ておられるのです。今、明らかになっていること、それはすべての癒し手が挫折しているということです。その世界のなかに神が来てくださっています。神のみ言葉が現実のものとなっているところで、神ご自身が臨在しておられるし、そしてまた、神の助けもそこで起こっているです」。

 この説教もまさに、ルカ福音書5章が証しいている唯一神の言葉イエス・キリストにある神の現実を語っています。

 

A最後に、コリントの信徒への手紙一15章55〜58節の伝道者パウロの言葉に耳を傾け、青年学生修養会の主題講演を閉じます。口語訳で朗読します。

「『死は勝利にのみこまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

 



石川地区青年会総会
2014年6月1日 15:00~
場所:金沢教会、

壮年会・婦人会・青年会合同例会
2013年10月20日(日)
礼拝後
場所:卯辰山公園健康交流センター 千寿閣
良き交わりの時を持ちたいと思います
昼食代600円
教会から車で出かけます。
乗合にて行きますので多くの人が参加してください。
(食事をしながら懇談を持ちたいと思います、終了後散歩もしたいと思います。)

青年会例会修養会
2013年8月18日(日)
12:00〜15:00
場所:金沢教会集会室
みんなで聖霊について学びたいと思います
小林伝道師と共に学びましょう。
内城牧師(羽咋教会
)も参加される予定です。
(食事は各自持参してください、食事をしながら懇談を持ちたいと思います)

 夕陽会
2013年7月28日(日)
17:45〜21:00
場所:内灘教会
メッセージ:松島保真牧師(小松教会)


青年会主催バーベキュー大会
7月15日(祝・月)
場所:獅子吼高原バーベキュー場
集合:AM:10:00 金沢教会集合・出発
参加費:大人 1600円、高校生 1200円、小中学生 800円、幼児 無料